【2011年第2回納得研究会】 実は4月9日(土)に第2回納得研究会が開催されて出席していたのだが,大震災の後で気持ちが落ち着かずにブログを更新していなかった。2本の発表題目だけ紹介しておくことにする。
発表1 「国語科デジタル教材の開発を巡って ~ PC活用の意義とそのデザイン再考 ~」
発表2 「科学実践としての理科教育」(1月22日博士論文公聴会の記事とほぼ同内容)
【2011年第3回納得研究会】
東京国立近代美術館で2011年第3回納得研究会が開催された。本日のテーマは「対話型鑑賞」。動物園でレッサーパンダを担当されているNさんと,美術館の来館者研究をされているHさんが昨秋から暖めてきた企画で、対話型鑑賞の概要については本年第1回納得研究会で発表が行われているので詳細はそちらを参照。
同業の五十嵐さんのブログにも今回の報告がある。
この美術館では,許可を取って写真のようなシールを腕に貼ると館内で写真を撮影することができる。ただし,三脚や一脚を使ったり,ストロボを使ったり,あるいは作品だけを大写しに撮影して流用するなどの行為と,「撮影禁止」と明示した作品の撮影はもちろん禁止である。
対話型鑑賞:VTS(Visual Thinking Strategy)、解説や説明ではなくみなで考え、話しながら作品を鑑賞する。当館で行うワークショップではいろいろなスタイルの鑑賞をしているが、今日は対話型鑑賞を実践していただいた。
時あたかもクレー展でにぎわっていたが、家のこまごました用事を片付けていたら集合の14時ギリギリになってしまってクレー展を見ることはできなかった。こちらは次の機会にしよう。
本日の出席者は24名。奇数月生まれと偶数月生まれの2グループに分かれて、美術館のIさん、Kさんのファシリテイトによる対話型鑑賞を体験した。私は偶数月生まれのグループで二つの作品をそれぞれたっぷり1時間近くかけて鑑賞した。
【ひとつ目の作品】
美術館の外廊下と内側を仕切るガラスを隔てて、ほぼ同一の鋳鉄製人体像2体が向かい合わせに展示されている。この場所に集まって、Iさんが「対話型鑑賞では、鑑賞の口火を切るときに What's going on this picture? などと問いかけます。何が起こっていますか?」
ギャラリー1 この人は外の景色(皇居の方角)を見たいけれど、ガラスに映った自分の姿が邪魔をして見ることができない。
ギャラリー2 双子が偶然この場所でガラスを隔てて出会って互いに見つめあい驚愕している。
ギャラリー3 自分は何とか今の自分を超えたいのだが、超えることのできない自分の姿を見ている。
ギャラリー4 普段は自分のことを実年齢よりも10~15歳くらい若く感じているのだが、電車などのガラスに映る自分の姿と隣に立つ風采の上がらないオジサンの姿が同年代であることに気付いて驚愕している。
ギャラリー5 この人の立ち方は足の親指の付け根に力が入っておらず、足の外側に重心がある。自信にみなぎっているという様子ではない。
ここで外に出て外側の鋳鉄像を「観」る。
ギャラリー6 外の作品は肌が荒れてますね。筋のようなものがついている。
ギャラリー7 長年の風雨にさらされている。
ギャラリー8 これまでの人生で幾度も選択をしてきたが、一度の人生でひとつの道しか選ぶことはできないので、「別の人生もあったのかもしれない」と感慨にふけっている。
ギャラリー9 双子がお互いに見詰め合ってそれぞれの人生の来し方を想っている。
Antony Gormley(1950- ),Reflection(反映/思索),2000年,鋳鉄
【ふたつ目の作品】
ビル街を空から見る構図の大きな油絵。ビル街の中空にたくさんの花びらが描かれている。
ギャラリー1 風が吹いてきて花びらが街に飛んできた様子。
ギャラリー2 街が荒れている感じがする。窓ガラスが割れているような。
ギャラリー3 花の茎がビルに取って代わられた。昔は花畑だったところがビル街になった。
ギャラリー4 今は都会で人波にもまれて生活しているが、花や緑に囲まれた故郷の夢を見ている。
ギャラリー5 花の動きが感じられない。
ギャラリー6 花の層が同じ高さのようだ。
ギャラリー7 レイヤーのようになっていて一番下に街があり、上の層に花がある。
ギャラリー8 ビルは時代を感じさせる。花は美しい時季が限られていてその美しい瞬間の花だけ描かれている。
ギャラリー9 この絵の真ん中あたりのビルだけ壊れたようにぐしゃぐしゃに描かれている。
ここで美術館のIさん「この絵のキャプションを読んでいただけますか?」
ギャラリー10 大岩オスカール(1965- ),ガーデニング(マンハッタン),2002年
ギャラリー11 最近(今)描かれた絵ならば、これは2011年3月11日以降今我々が見ている世界だ。
ギャラリー12 花はあの9.11で亡くなったひとつひとつの命をあらわしている。
・・・・
という具合に、Iさんはファシリテータとして我々に発言を促したり、我々の発言に言葉を足して繰り返したりしながら、我々鑑賞者が作品に対して感じたり作品から読み取ったりしたことを振り返り、鑑賞を深めた。
【研究会】
会議室に集まって、二グループの鑑賞を振り返り、質疑応答を行った。
Iさんから(偶数月生まれのグループ)
対話型鑑賞(VTS)ではなく仕掛けを持って解説する方法もある。今日は徹底してVTSで鑑賞した。美術を見ることを通してクリティカルシンキング、(メディアリテラシー的な)、観たものからどういう風に解釈してもよい。あなたが見たことがすべて。ただし、複数の人の発言と照らしあいながら、ある視点に到達しよう。このような鑑賞を繰り返すことによって、鑑賞力が高くなる。今日は二つ目の作品について途中でキャプションを読んでもらったが、徹底したVTSではキャプションを全く隠して行うこともある。(作品固有の情報が知りたい人もいるが。)
Kさんから(奇数月生まれのグループ)
作品情報をある程度与えて対話したり問いかけたり謎解きをしたりするスタイルで行った。本来はVTSでやってきたが、ガイドスタッフで相手する人たちは一般来館者であり、子供もいる、時間も50分と限られているので折衷してきた。対話を用いながら作品を見る。基本的には作品実物をみながら鑑賞する。観ているだけでは気付かないところに気付いてもらうための取り掛かりとして問いかけ、謎解きなどを発問し、作品に食い入ってみてもらう。お互いの交換までにはいたらなかった。自分の思いを語ってそれを交換し合う時間は取れなかった。
Iさん:人間同士の対話、鑑賞者同士の対話、ファシリテータと鑑賞者との対話を重視する。
S先生:今回はいろいろな人の発言を通して、自分の発言を振り返る、自分自身との対話であっただろう。自己内対話ではないか。
Iさん:VTSではファシリテータ,ナビゲータと呼んでいる。ファシリテータ、中立の立場を維持しながら発言を促してゆく、進行する。発言をすべて受け止める、パラフレーズ、少し別の言葉に置き換えて繰り返したり、それを取り入れて進行する。
SGさん:鑑賞者に情報提供することについて。
Iさん:VTSだと徹底して情報を出さない。キャプションを出さない。芸術作品でない場合もある。化学実験であったりもする。
Kさん:岡山で徹底したVTSをやったことがある。キャプションも見せない。不評な面もあった。作品を見るときに情報を与えない、しかし美術館としては作者作品に対する尊敬があるから最後には作者と作品名は伝えてくださいといわれた。
来館者が作品情報を望むこともあるので、それに対応するため純粋なVTSにはなっていない。子供だと発言が自由に始まる、議論が行われる。しかし、大人はそれができない。そのために、自分に問いかける内省的な方法になった。
Iさん:アビゲールハンセン、美的発達論、人が鑑賞する能力、5段階ある。
第1段階、物語を語り始める。
第2段階、自分の規範と照らし合わせて判断する(性格でないから変な絵だなど。)
第3段階、美術知識に作品を当てはめる段階。
第4段階、・・・
第5段階、・・・
第1段階の人を第2段階に引き上げるための見せ方がある。
鑑賞者の発言を絵にポイント付けさせる。「どこを見てそうう思いました?」というように。みんなが見ている同じ作品に、ある人の発言を根拠付ける。そうしないと、絵を見たことによる想像が別の想像を生んで、絵から発想が離れてしまう。
知識伝達型の解説が、実は役に立っていなかったという追跡調査がある。作品を見たことすら覚えていないこともある。なので、作品を鑑賞して自由に発言、自己内対話してもらうことから始める方法が行われ始めた。いろいろな人の発言が、自分の発想を豊かにする。複数で観ることの大事さ。先入観なしに作品と対峙する。
参加者1:美術鑑賞、自分の感じ方は自由。作品のキャプションに引きづられて知識的理解をするよりもおもしろかった。
参加者2:VTSを行ったときに、いろいろな発言から、その場所においてその場所にいる人の合意に達することが大事だと思ったのだがそれはどうだろう?
Iさん:進行役は意見をまとめてはいけない。ということになっている。
S先生:合意を得る必要はないだろう。触発されてコミュニケーションをとる。人の発言によって触発される、お互いに触発しあう力をつける、そういうコミュニケーションが必要なのではないか。看護教育に多少関わっているが、看護というのは微妙な技なので、ハウツーではない。ベテラン看護士に接して、その振る舞いから触発されることが大切なのであって、ハウツー的伝達をしていては触発しあうことにならない。対話によって触発される、触発することを育てる。言葉の意味をunderstand ではなく、 feeling with であるべきだ。
参加者2:合意ではなく、協働感覚を得るということでしょうか?今日、このメンバーで見たからこのような感覚を得ることができたというような。
参加者3:鑑賞者の水面下では別のことを感じてたりしますよ。他の人の発言に対して「この人はわかってないな」と思ったり。
Iさん:What's going on this picture? 企画展で人は集まるけれど、美術館にとって本当に勝負したいのはコレクションである。実は、鋳造の人体は、一晩であのようになった。それまで雨風はしのげていたのに、ある年の台風のときに雨が吹き込んで。作者に状況を知らせたところ、作者は是非そのままにして置いてくださいといった。その時間の経過による変化こそがコンセプトだからと。
【懇親会】
毎日新聞ビルのPRONTOでほぼ全員参加。今回初参加の人が二人、久しぶりの人が数名いらしたので全員で自己紹介をし、生ハムサラダ、ウインナーソーセージ、トマトとモツァレラチーズ、鶏唐揚、ピザ、スパゲティなど豪勢な料理とビールで大いに盛り上がった。幹事を務めていただいたNさん、ありがとうございました。
【二次会】
新宿2丁目のLENNON HOUSEというライブハウスに4人で入り、JAZZライブを観ながらビール、ウィスキーロックなどで仕上げ。店内はジョンレノンの写真がたくさん貼ってあるので、店主殿はたぶんジョンレノンとビートルズの熱烈なファンなのだろう。しかし、この日に演奏していたのはジャズ。ドラムとギターとキーボードが二人ずつ入れ替わり、女性のベーシストがひとり(彼女はフレットレスベースを演奏)、アルトサックスひとりでジャムセッションしていた。
ライブハウスでジャズを聴くのは5ヶ月ぶりくらいなのでとても楽しかった。同行の3方はフォークロック風のバンドを組んでいて、昨秋そのグループのライブに行ったこともある。
ところで、音楽の鑑賞にジャンルとか音楽形式や曲の由来のような「教科書的」な知識は要るのだろうか?今日の対話型鑑賞の流儀に従えば、「この音楽で何を感じたか?」「どんな情景が思い浮かんだか」のようなことになるのだろうか。音楽も自由なはずだから、たぶんいろいろな薀蓄的知識は無用なのだろうとは思う。
しかし、俳句のような定型詩的形式のブルースのときは、「Fのブルースをやろう」の一言で合意して演奏が始まり、聴くほうもブルースだと思って安心して聴くことができるし、どこかで聞きかじってきたマイルスデイビスのエピソードをしたり顔で語ればジャズ通のような顔して少しだけ鼻を天狗にすることもできる。
美術鑑賞をして、ジャズのジャムセッションを聴いて、酒と会話を楽しんで、気付けば終電ギリギリで帰路についた。飲んでいるときについ居眠りしてしまったのだが、そのときの様子を持参していたカメラでこっそり写されていた。同行の皆様、撮影ありがとうございました(大笑)。
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