2014-01-13

Kindertransport

2013年末から一週間の旅行で訪れたウィーン西駅、プラハ本駅の銅像のことが頭から離れない。
調べると次のようなことがわかった。

第二次世界大戦が勃発する以前の1938年から1939年までの9か月間に、Kindertransportと呼ばれる運動が行われ、10000人を超える、主としてユダヤ人の子供たちの疎開をイギリスが受け入れた。子供たちの家族はほとんどがホロコーストの犠牲となったが子供たちは助かった。

二人の彫刻家による記念碑が2008年頃から、オーストリア(Wien Westbahnhof)、イギリス(Beth Shalom Holocaust Centre)、チェコ(Hlavni Nádraži station,Prague)に建てられた。

チェコの親子像は、Sir Nicholas George Wintonがチェコスロバキアにおけるキンダートランスポートを組織したことを讃えるためのものである。

関連するウェブサイト
Saving Humans
Kindertransportに関するウィキペディアのページ
ニコラス・ウィントンに関するウィキペディアのページ
Kindertransport子孫の集いを伝えるページ(2008年)
Kindertransport75周年を伝えるCNNニュース(2013年)
Kindertransport75周年を伝える英国の新聞(2013年)

Kindertransportが行われた1938〜1939年は私が生まれる17年ほど前のことだ。書物でしかその時代のことを知らないが、生まれてから今までの年月よりも、もっと近い時代にこのようなことがあった。
その時に疎開した子供たちは私の両親よりも年下で、多くがご健在のようだ。
第二次世界大戦は"過去"のことではなく、「後世の歴史家が語る」ことでもなく、今生きている我々が考えることだと実感した。



2014-01-12

朝夷奈切通し

友人と朝夷奈切通しを歩く。地図などでは「朝比奈」と表記されるが、入り口の標識では「朝夷奈」となっている。

鎌倉幕府が1241年に切り開いた、現在の横浜市金沢区を通る環状4号の朝比奈インター南側に入り口があり、鎌倉市十二所まで通ずる道だ。一夜にして開通させたという伝説もある。

子供たちがまだ小中学校の頃は、我が家では元旦に一家でこの道を通って荏柄天神社に初詣していた。子供たちが大きくなって行かなくなったので久しぶりだ。

道中に熊野神社があるので初詣した。













2014-01-05

欧州旅行7日目

濃密な日を過ごしていたがとうとう最終日となった。
プラハの街を立ち去りがたく、朝食後にホテルからほんの少し外出してトラムが行くのをビデオに撮る。
ウィーンも,ブラチスラバも、そしてプラハも、路面電車がよく似合う街だ。歩道だけでなく車道まで石畳だからだろうか。
空港に入ってしまうと別世界なので、今のうちにプラハの空気を肌に染みつかせておこうと思う。

帰国
手配していた車が約束通り8時40分に来た。約20分で空港に着く。
空港カウンターで切符の確認をして荷物を預ける。飛行機が予定通りかどうか問うと、予定通りだというので安心する。出国手続きも円滑にすみ、プラハ通貨の残りで買い物をしてウィーン行きの飛行機の搭乗案内を待つ。

11時20分 プラハ発,OS706 
12時15分 ウィーン着
13時05分 ウィーン発,OS051
08時15分 成田着
の予定だった。

しかし、プラハでの搭乗時刻は10時50分からなのに、11時を過ぎても何の案内もない。
係に訊くと、機体整備のために50分遅れると言う。

ウィーン着が50分遅れれば,それは成田行きが離陸する時間と同じなので乗り継ぎができない。
「乗り継ぎできなかったらどうなるんですか?」
「OS051以降の成田行きは満席だからウィーンでホテルに泊まって翌日の便に乗ってもらいます。」
「???」

ということになった。
ウィーンで一泊余分に過ごせると気持ちを切り替えていると,成田往きに接続するように飛ぶと言う。

ウィーンまで約40分、機体はボンバルディアだと思う。
ウィーンの空港の中を乗り継ぎのために走って(今から考えると走る必要はなかったようだが)乗り継ぎ便に間に合った。

プラハで最後のプルゼニュ
プラハ空港の税関を通った内側だが、街中の4倍くらいの価格だった。




プラハ発ウィーン行きに乗り込む。乗継ぎがうまく行きますように!





予定通り成田空港着

1月5日午前8時15分、定刻に成田に帰着。
目的の所にすべて行くことができて、思い出深い旅行になった。

2014-01-03

欧州旅行6日目

プラハ初日に訪れた聖キリルと聖メソディウス教会を再訪する。
教会の地下が博物館になっており、その奥の、戦いの現場となった納骨室に入ることができる。


初日は地下鉄で行ったが,この日はトラムを乗り継いで行こうと思ってホテルのフロントにトラムの運行系統を尋ねると1本で行けるという。切符もフロントで売ってくれるというので30分のを買った。


近所に花屋がないかきくと、トラムに沿って150メートルほどのところにあると教えてくれた。
花屋に行って教会に供えたいので白いバラを1本欲しいと言うと、「教会に持って行くなら花束にしないと」と言われる。
そこで、聖キリルと聖メソディウス教会の、第二次大戦で戦ったガプチークとクビシュをはじめとする空挺部隊員に捧げたいのだと説明したら、「それなら黒いリボンをかけてあげる」と言って、たった1本の花を丁寧に包んでくれた。


トラム14番
花屋のすぐ近くにトラムの停留所があって,ちょうど目的の番号のトラムが来た。
切符を打刻機に差し込んで乗車時刻を打刻する。地下鉄とちがって街の様子を見ながら乗れるので楽しい。

トラム車内の動画






降りる停留所のアナウンスが聞き取れなくて一駅遠くまで行ってしまった。しかし,そのおかげでヴルタヴァ川をトラムで渡り,歩いてまた渡ってくることができた。川は雄大で白鳥がたくさん泳いでおり、遠くにプラハ城が見えて絶景だった。




聖キリルと聖メソディウス教会
電車道に面した慰霊碑に花を捧げ、地下の博物館入り口に回った。戦争当時は納骨室は全くの地下室だったのだと思うが、教会は坂の斜面に面しているので、現在は納骨室は測道の側から出入りできるようになっている。慰霊碑の前に花を捧げてから博物館展示室の玄関に回る。

測道に面した玄関から入るとまず博物館の展示室があり,その奥に重い鋼の扉があって、その向こうが納骨室になっている。その扉は、「二度と戻ることのできない扉」を表現しているということだった。ここで最後まで戦って亡くなったのは最年少22歳、最年長で30歳の7名だった。

展示室も納骨室も写真撮影可能だったが、納骨室に入ると、とてもカメラを向ける気持ちにはなれなかった。











Jelínkova Plzeňská Pivnice
70年前の戦史に触れて敬虔な気持ちになったあとだというのに、プラハに来たからには是非おいしいプルゼニュのビールを飲みたいという俗な欲望に駆られる。
街の中心部に近いビアパブJelínkova Plzeňská Pivniceを探しあてて入る。

開店は午前10時。我々が店に入ったのは開店30分後だったが、数名の常連客はすでにでき上がっている。

「プルゼニュのビールが飲みたい!」

「モンゴルから来たのか?」

「ヤポンスカだ」

こちらはチェコ語が全くわからないし、店の人と常連客の人たちはほとんど英語を話さない様子だったから会話があまりすすまなかったが、それでも互いにヤンヤと盛り上がった。

この店のビールは本当に美味い!ジョッキを水で冷やして,ほどよい泡をたてて出してくれる。カフェでコーヒーを飲むよりも安い。
ビールの他には数種類のウイスキーや乾き物のつまみだけの店だが、朝からにぎわっているところを見ると地元の人には人気なのだろう。
プルゼニュのビールは日本で一般的なビールの元祖らしい。








肉屋で昼食
街中の肉屋ではお惣菜を立ち喰いできるようになっている。さすがに生ビールはないので瓶ビールとサラダとお好み焼きみたいなのとパンを買って店の中の立ち席で食べる。






雪の聖母教会庭園で休憩
朝から歩き通しで、しかも午前からビールをハシゴしたので公園で休憩した。ここは雪の聖母教会庭園、初夏に来ればバラの花がきれいなのだろうと思った。



ヴァーツラフ広場
街中を歩き回ってヴァーツラフ広場に戻ってきた。日没は4時頃、ウィーン・プラハ旅行も最後のよるとなった。
見たいところはだいたい見たけれど、名残を惜しんで日没後も広場を歩く。

パントマイムの人、足元に箱を置いているので20コルナ(100円くらい)を入れたら「ありがとう」のジェスチャーをしてくれる。
気を良くして写真を撮影したら「写真を写すなら100コルナ」と言われる。なるほど、以前ハリウッドの街を歩いたときに、カウボーイの姿をしているマネキン人形のような人が実は本物の人間で、彼に寄りかかって写真を写している人もそれなりの札を入れていたのを想い出した。













セルフサービスの店に入って夕食をとった。店に入ると,まず縦長の伝票を受け取る。その伝票を持って,料理を並べて売っているところに進む。

好みの物を皿に盛ってもらってトレーに載せ、買った物を伝票に記録してもらう。
食事が終わったら伝票を出口に提出すれば清算してくれる。




こうしてプラハ最後の夜を豪華に締めくくった。