2010-08-29

声楽コンサート

 横浜みなとみらいホールの小ホールで開催された声楽コンサート(Livero Canto の会)に行ってきた。高校時代の友人が声楽(バリトン)をやっていて,その案内をもらっていたからなのだが,もうひとりの同級生が彼のピアノ伴奏をするので,両方見たかったから。
 少し早い時間に横浜へ出たので何軒かの店を見て回ったが,まだ暑い盛りなのに品揃えはすでに秋一色になっていた。夏ももう終わりなんだなぁ。
 イタリア歌劇,ドイツ歌劇,日本の歌など16のステージがあって各人二曲くらいずつ歌い,最後は出演者全員での合唱で締めくくった。仕事とは別の場所で頑張っている同級生の姿を見て感動した。
 声楽を聴くと,アンプを通さない人間の声が,大きなホールに響くことにいつも驚かされる。この夏は,Jazz,芝居,声楽と,種類の異なる芸術をライブで堪能できた。

2010-08-28

第4回ヒレ推進船コンテスト

 横浜国大工学研究院海洋空間システムデザインコースが主催する標記コンテストに、課題研究でヒレ推進船に取り組んでいる生徒3名が出場した。



 予選では直進できて、制限時間内に10メートルを走りきったが、決勝トーナメント、敗者復活戦ともに左旋回してコースに引っかかり、完走できなかった。
 しかし、バルサ材をくり抜いて何枚も重ねた、船らしい構造が評価されて、特別賞を頂くことができた。
 どのチームも、船体、推進機構ともにいろいろな工夫がなされていて、とても興味深かった。
 来年こそは!

2010-08-22

黒鯛プロデュース「相続してもいいころ」

 銀座みゆき館劇場に,黒鯛プロデュース「相続してもいいころ」:和泉ちぬ主演,を観に行った。黒鯛の芝居はこれまでに5本観ているが,1番最近の前回作品(「異議ある夫婦」2009年7月)を観落としていたので,今回は楽しみだった。

 今までに見た5本には,すべてJazzドラマーの市原康さんが出演していたが,今回は重要な役割ながら声だけで登場。
 父親の遺産相続にともなって浮き彫りになるきょうだい・家族の関係,笑わせてちょっとホロリとさせる,いつもながらの芝居だった。

 Jazzのライブと同様に,芝居などの舞台芸術は「そのとき,その場限り」の1回性こそが真骨頂だ。役者の動き,台詞,ある場面で観客席からいっさいの物音が消えて全員が舞台に見入る瞬間,別の場面では笑い声や咳払いなど,舞台と観客が一体となって演じられるところが面白い。

 次回も見落とさないようにしよう。

2010-08-21

第3回全国高等学校情報教育研究会大会(2日目)

2日目は9時半から4会場で分科会,12時すぎから全大会と閉会式が行われた。
参加した発表は次のとおり。
第2分科会(メディアとコミュニケーション)
(1) マルチメディア系科目の「実技試験」と「プレゼン試験」
 横浜清陵総合高等学校で実施しているマルチメディア系科目では,作品制作の「実技試験」と,作品のコンセプトや制作過程についてプレゼンテーションする「プレゼン試験」を実施しているという。



試験を課すことによって,生徒の取り組みも真剣になる。また,同校では「プレゼン試験」だけでなく,様々な発表の機会を設けているため,生徒は卒業する頃には臆することなく人前で発表できるようになっているそうだ。
(2) Global Usability に配慮した日本語学習支援教材の制作
 兵庫県立西宮今津高等学校で実施している海外の高校との連携紹介。
 日本語を学習している海外の高校と連携して,生徒が日本語教材を制作し,それを使った結果を評価してもらうなどの交流についての発表。
第4分科会(研究会・専門教科の取り組み)
(4)大阪私学教育情報科研究会の取り組み
 大阪府下の私立高校で実施している授業公開キャラバン(他校の授業を見学する,他校の授業に参加するなどの取り組み),校内へのICT活用機器の導入などについて管理職向け研修の実践などの紹介。
第1分科会(情報モラルと問題解決)
(4)問題解決力をつけるために
 関西大学中東部で実施している学校設定教科「考える科」の紹介。中学校の技術・家庭科では情報に関する領域でコンピュータ等の仕組みと取り扱いは指導するが,「問題解決」について触れる科目がない。そこで,今年度から「考える科」を設定し半期が過ぎた。その実践紹介。

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 教科「情報」は新設されて満7年が経過したが,いまだ発展途上で教材・授業デザイン,評価などについて工夫する余地が多く残されている。その観点から,関西大学中等部の「考える科」は,授業をどのようにデザインし実践するかという,教育の根源的な問題を考えさせられた。また,横浜清陵総合高校で実施している実技試験とプレゼン試験は,生徒が自分の学習を振り返る機会になると同時に,評価についてとても参考になる取り組みだった。

2010-08-20

第3回全国高等学校情報教育研究会(初日)

 第3回全国情報教育研究会に参加した。
 今年は4枚カード問題の実践をポスターセッションの場で、参加者の協力を得て授業実践の再現をしながら発表した。


(1)基調講演



 文部科学省初等中等教育局視学官の永井克昇先生から、次のような基調講演をいただいた。

 H21年3月 学習指導要領改定(教科情報に関して)
 ホップ(現行)→ステップ(新)→ジャンプ(新新)

 平成18年10月の未履修問題:平成17年6月に中教審で新しい学習指導要領への答申が出されて、その議論が活発になっていた時期だった。共通教科情報を必履修にすべきなのかどうかという議論の矢先だった。
結果、共通教科として続けることになった。

 ホップとステップは同じ足、ジャンプは違う足。だから飛距離はジャンプで伸びる。教科「情報」についても、大きな飛躍をしたい。ホップでもステップでもなく、ジャンプさせたい。

 ☆学習指導要領上の「情報活用能力」について繰り返し述べてきたのだが、それにもかかわらず、「情報活用能力=コンピュータ操作スキル、情報教育=そのスキルアップ教育」という「有識者」がまだいる。

 すべての国民が、高等学校を終えて社会に出たときに情報活用能力を身につけさせることが高校教育の使命だと考えている。

 ☆情報活用の実践力、情報の科学的理解、情報社会に参画する態度。これは、「指先のスキル」アップを求めているのではない。

 ☆情報活用能力は、「読み・書き・計算」に並ぶ4番目の基礎力。必須の能力である。ここにお集まりの先生方にはいたって単純明快なのだが、改めて共通理解としたい。

 ☆情報教育の目標の3観点
  「わが国の情報教育は、互いに独立性の強い「情報活用の実践力」「情報の科学的な理解」「上社会に参画する態度」をひとつの統合された力として、バランスよく見につけさせようという理念を持って実践されている。この理念が諸外国と異なるため、わが国の情報教育を「日本型情報教育」と呼ぶことができる。

 ☆高等学校教育のキーワード:次の二つが重要
 共通性:高等学校教育の質の保証(子供たちに対して担保する)
 多様性:学校裁量の拡大(各学校の判断に任せる)

 「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが、高等学校教育の場合には、「二兎を追って、二兎とも得る」ことが課せられている。共通性を担保しつつ、多様性を学校の裁量に任せる。学校の取り組みを見ていると、多様性に偏って、共通性を見失っている場合もある。共通性を担保しつつ、多様性を充実させるべきである。

 ☆第2期目を迎えるに当たって改めて新設の経緯を共有する。
 ○情報科の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進に関する調査研究協力者会議」第一次答申、平成9年10月。「コンピュータ等の情報手段を積極的に活用する科目を設けるなど、選択の幅を確保することが望ましい」・・・当時は必ずしもすべての中学生がコンピュータの取り扱いをしてきたわけではないので、コンピュータの操作にかかわる教育も必要だった。

 ○教育課程審議会答申」平成10年7月
 いまさらながらなのだが,教科「情報」新設の経緯を共有しておく必要がある。

 ☆共通教科「情報」はなぜ必履修でなければならないのか。
  中教審答申」平成20年1月17日
  ① 高等学校においては、普通教育として、ずべての生徒に対し、日常生活を営む上で共通に必要とされる知識・技能を習得させ、それを活用する能力を伸ばし、調和の取れた人間の育成を目指すことから、引き続き、必履修教科・科目を設定することが適当である。

 必履修教科であるということは、子供たちに最低限必要な、人間としての生きる力、情報活用能力とは何なのかを問う必要がある。指先スキルではない。

  ② 現在の必履修とすべき教科の範囲は、いずれも高校生にとって必要最低限の知識・技能と教養を身につけるために必要なものであると考えられる。

  中教審答申」平成20年1月17日
  ① 情報教育が目指している情報活用能力を育むことは、基礎的・基本的な知識・技能の確実な定着とともに、発表、記録、要約,報告といった知識、技能を活用して行う言語活動の基盤となるものである。

 ☆ 「言語活動の基盤」:日本型情報教育を通じて、情報教育をおこなっているが、その基盤となるものは言語活動の充実である。

 ☆ これからの高校生にどういった力を身につけさせるのか。
  ①生きる力:学習指導要領の根本的な考え方。
  豊かな学力
  豊かな人間性
  健康・体力

  ②キーコンピテンシー(主要能力)
  ③社会人基礎力
  ④就職基礎能力
  ⑤学士力
  ⑥21世紀型スキル:これらを一つ一つよく見て見ると、新規性があるといえるのか?平成15以来の教科情報で行ってきたことではないのか。(思考力、コミュニケーション能力、コラボレーション能力、ICT活用能力、個人の責任)。教科情報の我々にとっては当たり前のことである。情報の授業のプロセスである。情報科の狙いそのものである。
 さまざまな○○力と言うのが提唱されているが、少なくとも教科情報ではこれらのことは包含されてきた。

 ☆☆共通教科情報では、国民必須のこのような力はこれまでもおこなってきた。
環境教育、国際理解教育・・・・・○○教育と言うのがこのごろ多いが、それぞれの○○教育で身につけさせたい力を列挙したら、スライド6になる。□□□□□で身につけてほしい力。この16個すべてにあてはまるのは、「日本型情報教育」である。

 ○○教育のすべてにかかわるのが情報教育である。コンピュータスキル教育などと言うことは微塵も出てこない。社会的地位ある人のなかに、コンピュータスキル教育に傾倒している人がいるのはいかがなものか。

 ☆国民必須の力
 読む・書く・計算する+情報活用能力
 学校教育(学習指導要領)
 総合的な学習の時間「国語・地理歴史・公民・数学・理科・保健体育・芸術・外国語・情報」これらについて総合化する。分業としての学びを総合化・統合化する。


 ☆新学習指導要領
 これまで中央説明会などで説明してきたが、その中で、主に多く質問されたことについて。
 教科「情報」の論点:
○ 学校がいずれかひとつの科目に決めてしまうのではなく、両科目(社会と情報、情報の科学)を開設して、生徒が主体的に選択できるようにすることが望まれる。←子供たちが決めることと言うメッセージ。しかしながら「望まれる」というところがポイント。学校の実態、施設・設備、教員の配置などの問題などがあるので、結果として学校がひとつに決めてしまうこともあり得る。学習指導要領からはずれているわけではない。しかし、スタートとしては生徒が選択できるように教育課程を編んでいったが、○○の事情で一方のみの科目開設となった。ということが保護者・地域に説明できるかどうかが問われる。
○ 「社会と情報」「情報の科学」をさらに発展させた学習をおこなうために、専門教科情報科のか科目を履修させることも可能である。
○ なぜ、各科目とも総授業時間に占める実習に配当する授業時数の割合を示さなかったのか。
 ←総時数の何分の1という表現はやめた。「実習しなくて良いのか?」という質問する人がいるが、そんなわけはない。すべて座学、すべて実習などと言うことがあるわけがない。実習教科ではない。ちゃんと教え込むことが必要である。たまたま2単位としているが、実態は3ないし4単位は欲しいところである。
「エクセル3ヶ月、ワード3ヶ月でマスターできるからあとの半年は古典でもやるか」のような議論がいまだに出てくる。それは未履修問題の再来だ。
 センター試験の科目になるのかならないのか。センター試験に入れることが良いことかどうかわからないが、大学入試の科目が高等学校教育に大きな影響を及ぼしていることは確かだが。そして実習教科・2単位教科はセンター試験や入試にはなじまない。しかし教科「情報」は実習教科ではなく、また本音は3~4単位欲しい教科だ。
教科「情報」の免許は専門教科も教えられるマルチな免許である。必要に応じて専門教科「情報」の科目を設定しても良いわけだ。「社会と情報」「情報の科学」を学んだあと、深く学ばせたいならば、専門教科情報を設定しても良い。

○ 各科目は原則として同一年次で履修させること
 ←1単位分割で複数学年にまたがって行うことに、教育的配慮があるか。教育的効果があるかといえば難しいところだとい考えているが、いろいろ検討した結果(総合的な学習の時間との連携、他教科との連携などにより複数学年にまたがっての分割履修の必要・必然性があるという結果ならば理解できる。はじめから時数調整のために1単位ずつ分割ありきという議論でよいわけではない。)


(2)ポスターセッション:12本の発表があった。私からは、「表現と内容の理解」として、「Wasonの4枚カード問題」を教材化して授業実践した内容を発表した。

【ビール問題】
 パーティ会場で次のような状況があるときに、「ビールを飲むなら20歳以上でなければならない」という規則が守られているかどうかを確かめるには、どの人を確認しなければならないか。
(1) 飲料不明  成人
(2) コーラ   年齢不詳 
(3) ビール   年齢不詳
(4) 飲料不明  未成年

【4枚カード問題】
4枚で1組のカードを作る。片面にアルファベット、裏面に数字を書く。
「大文字を書いたカードの反対側の数字は偶数にする」というルールにした場合、どのカードをめくればルールどおりに作ってあるかを確かめることができるか。
(1) 8
(2) m
(3) A
(4) 3

 【ビール問題】も【4枚カード問題】も、【命題、逆、裏、対偶】の問題として考えればまったく同じ論理構造をしている。これを授業に組み立てて、【ビール問題】を生徒に演示させ、個人ごとに答えさせると、9割以上が正解した。
しかし、ビール問題を解かせたあとに【4枚カード問題】を4人程度のグループで考えさせると、正解率はビール問題の半分くらいになった。



 見に来てくれた人に協力してもらって授業を再現し、実践を紹介した。教室での実践と同様に、「ビール問題」ではまず間違いなくほとんどの人が正解する。
(ビールを飲んでいて年齢がわからない人の年齢を確かめる)
(未成年であることがわかっていて飲み物がわかからない人の飲料を確かめる)

 しかし、「4枚カード問題」になると、始めのうちは(8のカードを確かめる)(Aのカードを確かめる)と答えようとする人が少なからずいる。

 実際の授業では、このあと「ビール問題」と「4枚カード問題」をベン図で解説し、さらに同様の論理構造をした問題を提案させ、提出された問題について検討させるところまでおこなった。

 今回は、ワークショップ風に参加者の協力を得て授業の再現をしながら行ったので楽しい発表になった。

2010-08-15

昭和萬葉集

 毎年お盆の頃には,昭和54年に講談社から出版された『昭和萬葉集』の巻七を読むことにしている。就職したばかりの頃の盆に帰省したとき,両親とNHKの番組を見ていてこの本の中の一首を知った。その一首が忘れられず,休暇が終わってから買い求めて母に贈った本だ。今は母の形見として手元に置いている。この巻七には,昭和20年から22年,終戦前後から復興の頃の歌が集められている。
 
 『帰らざる十七人ほどの兵ありて静かなる村の一つの嘆き』(菅原俊治,「創作」)

 第二次世界大戦も終戦後の動乱期も私が生まれる前のことだが,自分の意志とはかかわりなしに戦争に巻き込まれ,歴史に名前を刻まれることもなく亡くなっていった300万人を超える命を想う。

2010-08-09

学習環境デザイン研修講座

 横浜国立大学で開催された「学習環境デザイン研修講座」に出席した。この講座は横浜国立大学と,神奈川県・横浜市・川崎市各教育委員会が連携して現職教員のために実施しているもので,私は今年で5回目の出席である。完全なリピーターになった。講師は横浜国立大学教育人間科学部教授の有元典文先生。
 ちょうどJean Lave(ジーン=レイヴ)とEtienne Wenger(エティエンヌ=ウェンガー)著,佐伯胖訳の「状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加」を読み始めたところだったので,今までにも増して充実した研修となった。
 以下,研修中にとったメモから。

【動機づけ】
 子供の動機が一番問題ではないか、どうやったら動機を喚起できるか。それが最も難しくもっとも大切なこと。

【いくつかの動画の紹介】
 ペットボトルのふたを使ったバッティング練習(ドミニカ)、道端でのサッカー練習(ガテマラ)、ジャグリングの練習(ベトナム?)、ジャンベの練習・・・動機の強い練習とはどんなものか?
 これらの練習に夢中になっている子供たちは、独創的に思いついている遊びをしているわけではない。その練習の裏にはそれを職業にしていたり、趣味にしていたりなどの、大人の文化的活動がある。
 答えはわかっている。大人がやっているこれらの文化的実践に憧れを持てば動機が生まれる。しかし、それを学校に持ち込むのはとても難しい。
 その「難しいこと」を学校に持ち込む「苦肉の策」を考えたい。

【今日のテーマ】
・内発的動機を引き出すための工夫
 →コミュニティーへの参加として
 →コミュニティー作りとして

・学習=参加(メンバーになること)
 →「学習とは頭の中に知識技能を入れること」とする従来の考えとは違って

 日常の何気ない所作も、人は学び分けている。たとえば頬杖つくときや座るときの足の組み方など男女で違いがあるが、誰が教えたわけでもない。大人の実践を人は学び分けている。それを、なぜ人は学校では学ばなくなるのか。
 本日はそういうことを話したい。

【知的好奇心とは】
 「内発的動機付けを構成する重要な要素で、知識の獲得を目指す傾向をさす。」有斐閣、心理学辞典から。
 内発的動機によってに学ぶようになることが教育の目的である。

【Work01】
 本日の参加者が日ごろどんな実践をしているか、仲間や楽しみは何か、それをするための情報源は?
 参加者1 通勤時間を利用して新聞を丹念に読む。小学生新聞や中学生新聞も読む。自分の子供のためにどんな教育をしようか、教員として教育の場に参加するようになって、どのように子供と関わるか。新聞からいろいろなことを得ることができるので。
 参加者2 菓子作り(チョコレートケーキ)。一旦仕事を辞めたときに趣味として始めてそれ以来。本やネットで調べたり、教室に行ったり。仲間に味見をしてもらうのも楽しみ。
 参加者3 アメリカの大学の東京にある教室で英語を習っている。カンボジア?に2年くらいいたことがあって、それがきっかけで英語を勉強するようになった。BBCやCNNなどのニュースも聴くようにしている。
 参加者4 ピアノを始めた。子供の頃に習っていたがずっと弾いていなくて、弾けなくなっていることに気付いたので始めた。驚くほど練習している。夜遅くなる用事があるときには、まず練習してから外出するようにしている。
 参加者5 自分が教員としてやってきたこと、授業実践を文章にまとめる。執筆というほどではないのだが、プリントして仲間と共有している。
 参加者6 前任者の転勤にともなって行きがかり上野球部顧問となった。5年目だが、やってみるとおもしろい。技術指導はできないが、部活動の運営に一生懸命になっている。今日も練習が気になっているが、雨のために練習が中止になったので安心して研修を受けている(笑)。
 参加者7 始めたばかりだが蕎麦打ちをしている。地域の公民館活動がきっかけ。家では食事当番なので、もともと料理は好きだった。道具を揃えて本格的に。蕎麦を打っている間は無心になれる。
 参加者8 写真を始めた。主に風景を撮影している。太り始めたので外へ出歩いて体を動かすことが動機だった。コンテストなどにはまだ出していないが、上手になってきたと思う。
 参加者9 外国人対象の安宿(ホステル)でボランティアをしている。教員になる間に海外での生活経験があって、それがきっかけ。まったくのボランティア。受付業務や案内などをしている。
 参加者10 いろいろなことで気になることについて、とことん調べる。Wikipedia,新聞、雑誌、TVなどあらゆる情報源を使って調べる。最近、鉄腕アトムとドラえもんはどちらが大きいかわかった。
 参加者11 ラグビーの写真を撮影している。子供が大学のラグビー部にいる関係で。風景や人物は構図が難しいけれど、ラグビーの場合はこれぞというシーンは選手が作ってくれるので、そこを逃さずに撮影する。

【Work01まとめ】
 というように、内発的動機に基づく活動について語るときの目は輝いている。授業を受けている子供は?そういう状態に子供がなっているかどうか。

【作業と実践】
 やらされている仕事 vs 自ら向き合う実践
 当然だが、自ら向き合う実践のほうがパフォーマンスは高い。

 やらされ仕事
  ・学習事項が外発
  ・問いが外発
  ・方法・答えが外在
  ・知識の意義が不明確→(指導要領には書いてあるが生徒にとっては不明)
  ・アイデンティティが不明確→(自分が誰として取り組んでいるか、どうして取り組んでいるかがわからない)。何のために水温変化を調べているのかわからない。自分がやらされていることの意味がわからない。やらされ仕事たる所以である。
  ・生徒が自分から問わない授業はおもしろくない。

【学校はそのままでは実践のコミュニティではない】
 逆説的ではあるが、学習するのに一番困難な場である。
 その対極にあるのは、囲碁クラブ、少年サッカーなど子供が自分から求めていく場である。子供たちははじめから動機を持って参加している。

【教室の特徴】
  ・目的が希薄(学業外、成績以外の目的なし)
  ・メンバーは任意(地域の子供が集まるだけ)
  ・練習はあれど本番がない(試験は本番か?社会的には本番ではない。)
  ・基礎はあるけれど応用はない(いつ応用が来るのかわからない)
  ・損も特もない(失敗できる場所であるが、成績良い悪いはあるが、損得はない)
  ・あえてつけないと動機がない
  ・児童生徒でしかない。誰として、何のために取り組んでいるかわからない。

【教師とは】
 学習に不向きな場所で学習させるための工夫をする仕事、学習環境のデザイナーである。
 →やらされ仕事を文化的実践へ
 →実践のコミュニティ作り

【内発的動機】
 外発的動機は、薬で言えばオブラートや糖衣:苦い薬をだまして飲ます。
 内発的動機:必要性を理解し、苦くてもすすんで飲む。ギターを上手になりたければ、指が痛くても練習する。

【好奇心の喚起】
 ×:教材・教具の工夫(オブラート:動機がないという構造は変わらない)
 ○:大きな文脈(コミュニティ)の工夫。そこに参加したくなるような工夫

 どうしたら人は内発的に理解を求めるのか?どうすれば,自らもっと知りたい、もっとわかりたいという思いを持ち続け、更なる学びを探求するのか?
 内発的動機が湧く文脈とは何か?個人の特性にしか見えないこともあるが、それでは夢も希望もない(「そいつは勉強不得意なんだ」ではなく、教師だからそこを工夫する)。動機をどうやったら湧き上がらせることができるか。猛烈に勉強する生徒と、しない生徒が正規分布の両端にいる。それをそのままにしていては、教師の仕事とはいえない。

【参加としての学習】
 参加としての学習とは、頭の中に知識・技能を入れることではなくて参加すること。

【Work02】学校で学んでいないのにできることは?
 ・電話をかける
 ・切符を買う
 ・お金を振り込む
 ・iphoneの使い方
 ・咳の仕方・くしゃみの仕方(日本だとハクション、あめりかだとアチョー)
 ・じゃんけん(日本中同じルール、メディアを経由しないで広まった。最たるものが言語。誰も教わらないのに日本語をしゃべっている。)
 ・店や出かけたときに失礼でないようないい方でお願いする方法(できない人いるけれど)
 ・学校で子育ては学ばなかった。風呂の入れ方などもろもろ。
 ・トランプゲームなど。(トランプゲームを開発しろといわれると大変難しい。大貧民はどうやって思いついたのか?)
 ・今までに出てきたことは特別支援では全部教えること。指示に従うなども教える必要がある。
 ・嘘をつく:上手につけるようになったか?子供たちの嘘を見破るとか、嘘を上手について飲み会に行くとか、自分の子供が上手に嘘つくのに愕然としたり。

【Work02まとめ】
 学校だけで全部を教えているわけではない。学校は特別な学びの場面を作る。
 日常の中で学ぶ。
 実例1:コスプレイヤーたちはそのコミュニティに参加し、学習する。ドレスメイクとはまったく別の作り方でコスチュームを自作する。着ることができて、ある程度の耐久があればよい。コスプレイヤーののコミュニティに入るためにはできるようにならなければならない。個人の独創ではなくコミュニティの文化的実践である。彼女らは,いろんな制約を作っている(会場の外でコスチュームを着てはいけないなどのルールなど)。コスプレイヤーのコミュニティに受け入れられるためにはその文化を実践できなければならない。
 「学校」という制度は200年。大発明だった。効率良いように見えているが、実際には効率よいわけではない。学校としての教え方に合った正規分布の右端の生徒にとって効率が良いだけではないか。200年の歴史、饅頭屋の老舗は300年以上。日本の学校はまだ実験中といえるのではないか。アメリカから輸入した。そんな若い国からわざわざ輸入した。明治5年くらいから。

 日本人らしさ、性差、コスプレ・・・etc,「経験によって、できなかったことができるようになること」を学習と呼ぶならば、これも学習(好奇心に満ちた)である。
 
学校の学習との違い:
 ・驚くほど多くの人がほぼ間違いなく習得すること。
 ・ほとんどの場合、それららしい苦労を伴わないこと(楽しみながら)

 実例2:オートバイの乗り方。暴走族たちは、暴走族に見えるように、蕎麦屋の出前には見えないように、「学習」している。
 ・佐藤(1985)暴走族のエスノグラフィー
 ・Eckert(1990)は高校におけるエスノグラフィ

 【学校だけが知識を身につける場ではない。】
 いかに授業・活動をデザインするのか→個人のデザインではなく、場(コミュニティ)のデザインとして。

 学校に向く・向かないというのは個人の特性として理解されてきたが、そうではなくて「場のデザイン」に原因があるのかもしれない。「人には必ず輝く場所がある」とよく言うが、それは本当かもしれない。
 2割だけを利してよいのかという疑問。科学の出番ではないのか。個人の責任に帰させるのではなく、場のデザインの問題ではないのかという問題意識。

 【個人の能力が可視化される授業のデザイン,見えないようにする授業のデザイン】
 ある授業では、「三角形の色タイルで形をデザインする」という課題があった。『できたら紙をわたすから書きなさいという』とやった。その授業デザインのために、いつまでもやっていてできない生徒が見えてしまう。可視化されてしまう。はじめから紙を配っていればそれはわからない。公園で走り回っていても、個人の走る能力はあまり見えないが、徒競争させると速さが可視化される。

【学びの条件】
 レイヴとウェンガーの正統的周辺参加(LPP)の理論。Jean LaveとEtienne Wenger著,佐伯胖訳の「状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加」。その著書の中で,「学習とは実践共同体への参加である」とする。
 学習の成り立ちに必須だと思われてきた教育(「教え込み的教授行為」)や,テストや賞賛や非難がなくとも、普段の社会的実践の中でほとんど誰もが一人前のメンバーになる。この本で、学校の話は出さなかった。学校以外の場所で、人はこれだけ学んでいるということを言った。社会的実践の中で,ほとんど誰もが一人前のメンバーになる。
 学校との対比で多くの人が驚いてしまった。

【鍵は「参加」という形式】
 「正当性」という概念は、その共同体の一人前のメンバーになろうとして参加していることを指している。古参者を見て「ああいう人たちになろう」と。その共同体の「跡継ぎ」になろうとしているから「正統的」である。
 日本人に正統的に参加した。日本のこの文化に参加した、跡継ぎになった。だから日本語をしゃべるし,日本人らしく振舞える。
 跡継ぎになるくらい強い参加:それができれば。そういう強い動機を持つことができるような授業デザインができれば。

【動機なき主体】
 学校において学習者は、技能の「やりかた」には習熟しても、「誰」が「何のために」その技能を用いるかの理解を往々にして欠く。
 その技能の使用の文脈を持たない。
 その技能を用いる動機を決定的に欠く
 実例:サンリオに入社した社員:キャラクター人形の球状の頭にペンキがどれだけ必要かを計算する必要があった。球の表面積を求める公式を初めて実用的に使った。

 学校という文脈や動機はあるが、本来応用すべきはずの(卒後の現実世界の)具体的な文脈や動機とは距離がある。
 →子供は、そのことを勉強するために勉強している。学校は行くことになっているから成り立っている。しかし、それは我々の本意ではないはずだ。

【取扱説明書】
 動機なき技能の学びは、たとえば用途が書いていないにもかかわらず、詳細に取り扱い方法を書いた取扱説明書に似ている。

【難問】
 特に社会的に意義ある実践をおこなうために組織された共同体ではない教室で、社会的に動機付けられた参加をいかにして構成するか。
 集めて教えたら応用できるか?野球を見たこともないのにキャッチボールだけを教えて、野球をしたくなるか。
 ドミニカのペットボトルキャップの練習:あれを学校に持ち込めないか?

【好奇心を引き出す文脈:RISP】
 ・Real:活動自体がリアル(日常だと当たり前、学校ではそうでもない。点数がつくと言う以外のリアリティがあるのか?)
 ・Identity:アイデンティティがある(自分が誰か。日常ではわかりきっている。賞賛されたい。翻って学校では、自分が誰で、何のためにそのことに取り組むのか)
 ・Social:社会的意義がある(何でそんなことをするのか。何に必要なのか。手紙ごっこを子供はするが、それは社会的意義に敏感だから。暴走族だって、やらされ仕事ではないから,内発的動機があるからその「実践共同体」に入って学ぶ)
 ・Perticipate:実践のコミュニティに参加する。(そのことに参加しているか、写真雑誌があったり、関連する道具が合ったり、ちゃんとそれを受け入れる場がある。学校ではそれが見えない。分数の通分:それを利用するコミュニティがあるのか?ピアジェは,日本の学校で通分を教えているのを見て驚いたという。)

もし社会が全部つぶれて、一から学校を作るとすれば、何を教えるのか。火の起こし方?安全な食べ物の探し方?ベートーベンはなんとなく必要みたい。そうしてゆくと今の学校になってしまうか?
 1980年代、ニューヨークで財政難から音楽を学校で教えないことにしようかという議論があった。自分が学校を作るとすると、なにをするのか?相当考えたけれど、教え方はかえるにしても、教える内容は今の学校に近いもとになりそうだ。

【英語なら(簡単な英語で、海外の人とメールさせる)】
 R 学校の外のこととつながる。
 I 誰として取り組むか。
 S なんの役に立つか
 P 日本人の英語
 本物とつなぐ、社会の実践とつなぐ

【美術なら】
 R アートの意味や価値
 I 表現者、鑑賞者として
 S 自分にとってのアートとは
 P 勉強ではなくアートに向きあう

【音楽の授業で】
 日本の伝統に触れる単元で、琴の学習なのだが、琴の写真も、音も何も出てこないのに琴の部品の名前を覚えさせる。これは,エグザイルを鑑賞するのではなく、「エグザイルは何人のメンバーですか?」のような話である。

【理科なら】
 R 自らの生命や健康の基礎
 I 生活者、生活を科学で見直す
 S 勉強ではない人間の機構
 P 日常の当たり前をストレンジに
 科学の目で世界を見る。

【アメリカのキッヅネット】
 酸性雨を研究する。センターにデータを結集させる。酸性雨地図が描ける。社会とつながっている。理科の授業だけれど、社会的意義がわかる。

【教員は現学習者(宮崎清孝)】
 教員は,生徒に先立って学ぶ人、味わう人、鑑賞する人(もう一度学習しなおして見る、味わって見る)であるべきだ。
 リアリティ、アイデンティティ、意義、参加が、「勉強すること」だけになってないか点検してみる(そもそも、誰として取り組んでいるのか)。
 自分にとって対象単元は何なのか。
 生徒の生活(Quality Of Life)の質を上げるためということが目的なのではないか。知っていることを教えるのではなく、味わいなおし、学びなおし、それで教える。

【Work03】
 「内発的に動機づける」うえでこれまで経験した困難点を挙げて下さい。
 二進法を教えるときに,生徒から「これが何で必要なの?」と根源的なことを質問され,絶句してしまった。

【学校のミッション】
 ○卒後の生活の質の向上 QOL
 ×学校での達成

 学校の生徒にすることが目的で授業をやっているのではなく,卒業後の社会に受け入れられるために教育をしている。

2010-08-07

UENO JAZZ INN '10

 上野公園不忍池畔、水上音楽堂みずとりのステージへ、兄と二人でUENO JAZZ INN '10 のライブを観に行った。


15時40分から20時過ぎまで。
 出演は
 山梨県富士学園高校Jazzクラブの現役と卒業生、
 ジェームス=ケイ(ヴォーカル)、市川秀夫(Pf).上村(B)、二本柳(ds)
以上は浅草JAZZコンテストグランプリ グループから
 佐藤允彦トリオ & ヴォーカルユニット a・i & 後藤芳子
 古野光昭(B)・森下滋(Pf)・市原康(Ds)、ウェイウェイウー里見紀子
 内堀勝 & Big "LUSH" BAND、青木カレン(ヴォーカル)
 先着100名にはヱビスビールをもらえるのだったが、この炎天下でそのために並んだら熱中症になりそうだったから、おとなしく開場10分前に列についた。
 今日の目当ては、古野さんと市原さんのふたり。
 15〜6年前から都内のライブハウスへ足繁く通ったのだが、最近では年に2〜3回行ければ良い方だ。
古野・市原・森下トリオによる I Love You, Summer Time のあと,二胡のウェイ・ウェイ・ウー、バイオリンの里美紀子を加えた演奏はとても素晴らしかった。ピアノトリオ+擦弦楽器2本の組み合わせを聴くのは初めてだが、古野さんのコントラバスのアルコとスラップもあいまって、リベルタンゴ、「ダーウィンが来た」のテーマ、チックコリアのスペインなど聴き応えのあるステージだった。
 本日トリの内堀勝 & Big "LUSH" BAND、青木カレン(ヴォーカル)は、A列車で行こう、3拍子編曲のサテンドール、ヴォーカルの青木カレンが入って スイングしなけりゃ意味がない、Love For Sale、アンコールでルート66。
 野外ステージで西日を少々受けながら、しかし暑いながらもほんの少し涼風があって、日が暮れると星も見えて、演奏も素晴らしかったし、とても楽しかった。

2010-08-06

広島原爆の日

昭和40年の7月、夏休みになってすぐに、小学生だった私は父の転勤にともなって広島へ転校した。転校先の小学校も夏休みなので、まわりに友達もなく、宿題もなく、どのような毎日を過ごしていたのかあまり記憶がない。
ただ、8月6日朝にNHKで放送された平和記念式典の冒頭、原爆投下の8時15分にあわせて打ち鳴らされる、被災者への鎮魂の鐘の音と「あれから20年」というナレーションを今でも覚えている。
父に連れられて見てまわった平和記念公園と資料館、住友銀行広島支店入口の石段に焼き付けられた「死の人影」が、そのナレーションとともに思い出される。
昭和20年8月、父は佐世保海軍施設部に勤務していたので、もし9日に長崎へ出張などしていれば、長崎原爆の犠牲になっていたにちがいない。
ヒロシマから65年、私の記憶に「8月6日」が刻まれてから45年が過ぎた。

2010-08-04

蜂の巣の子供たち

 神田の神保町シアターへ,「昭和の子供たち」の特集企画で上映している,清水宏監督『蜂の巣の子供たち』を観に行った。
舞台は昭和22年頃の下関、広島。身寄りのない復員兵と戦災孤児たちの話。
出演している子供たちは清水監督が引き取って育てていた実在の戦災孤児で、今は75歳前後になるはずだ。
「この子供たちに見覚えはありませんか」という、画面いっぱいの字幕から映画は始まる。
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どこへも行く当てのない復員兵が駅前で今後のことを思案しているところへ孤児たちがやってくる。食べ物をわたすと、子供たちは彼らの親分に取り上げられる。
闇市の商売をすれば稼げると提案する子供たちに、それだけはやりたくないと復員兵は断る。やがて子供たちと一緒に塩田の仕事や山から木を切り出す仕事をするようになる。
子供たちのひとりが栄養失調で倒れ、仲間に山の上へ連れて行って海を見せてくれという。一杯の山羊乳と引き換えに、仲間は病気の孤児を背負って、草履で急な斜面を登っていく。ようやく頂上に着いたとき、孤児は死んでいた。
復員兵は、子供たちには教育が必要だと考える。それで、自分が育った感化院「みかへりの塔」へ子供たちをつれてゆく。すると、大勢の子供たちと教官に迎えられる。
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清水宏という映画監督を知らなかったが、とても良い作品だった。「孤児たちにパンやおにぎりを配ることが大事なんじゃない。親身になってこの子供たちの将来のために尽くしてやることが大事なんだ。」というセリフがあったが、GHQの言論統制が厳しかった時代に、難しい表現だったのではないかと思う。
『火垂るの墓』、『イノセントボイス』、『少女の髪止め』、『子供の情景』など、戦争に子供が巻き込まれてゆく映画をいくつか見ているが、どれも切なくやるせない。戦争を主導した者は、たとえ戦争責任を取らされて最期を迎えたとしても歴史に彼の人生と名を残すが、大多数の兵士と庶民と子供たちは戦争に抗うこともできず、ひとりひとりの人生を顧みられることもない。「戦後」はまだ終わっていない。