横浜国立大学で開催された「学習環境デザイン研修講座」に出席した。この講座は横浜国立大学と,神奈川県・横浜市・川崎市各教育委員会が連携して現職教員のために実施しているもので,私は今年で5回目の出席である。完全なリピーターになった。講師は横浜国立大学教育人間科学部教授の有元典文先生。
ちょうどJean Lave(ジーン=レイヴ)とEtienne Wenger(エティエンヌ=ウェンガー)著,佐伯胖訳の「状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加」を読み始めたところだったので,今までにも増して充実した研修となった。
以下,研修中にとったメモから。
【動機づけ】
子供の動機が一番問題ではないか、どうやったら動機を喚起できるか。それが最も難しくもっとも大切なこと。
【いくつかの動画の紹介】
ペットボトルのふたを使ったバッティング練習(ドミニカ)、道端でのサッカー練習(ガテマラ)、ジャグリングの練習(ベトナム?)、ジャンベの練習・・・動機の強い練習とはどんなものか?
これらの練習に夢中になっている子供たちは、独創的に思いついている遊びをしているわけではない。その練習の裏にはそれを職業にしていたり、趣味にしていたりなどの、大人の文化的活動がある。
答えはわかっている。大人がやっているこれらの文化的実践に憧れを持てば動機が生まれる。しかし、それを学校に持ち込むのはとても難しい。
その「難しいこと」を学校に持ち込む「苦肉の策」を考えたい。
【今日のテーマ】
・内発的動機を引き出すための工夫
→コミュニティーへの参加として
→コミュニティー作りとして
・学習=参加(メンバーになること)
→「学習とは頭の中に知識技能を入れること」とする従来の考えとは違って
日常の何気ない所作も、人は学び分けている。たとえば頬杖つくときや座るときの足の組み方など男女で違いがあるが、誰が教えたわけでもない。大人の実践を人は学び分けている。それを、なぜ人は学校では学ばなくなるのか。
本日はそういうことを話したい。
【知的好奇心とは】
「内発的動機付けを構成する重要な要素で、知識の獲得を目指す傾向をさす。」有斐閣、心理学辞典から。
内発的動機によってに学ぶようになることが教育の目的である。
【Work01】
本日の参加者が日ごろどんな実践をしているか、仲間や楽しみは何か、それをするための情報源は?
参加者1 通勤時間を利用して新聞を丹念に読む。小学生新聞や中学生新聞も読む。自分の子供のためにどんな教育をしようか、教員として教育の場に参加するようになって、どのように子供と関わるか。新聞からいろいろなことを得ることができるので。
参加者2 菓子作り(チョコレートケーキ)。一旦仕事を辞めたときに趣味として始めてそれ以来。本やネットで調べたり、教室に行ったり。仲間に味見をしてもらうのも楽しみ。
参加者3 アメリカの大学の東京にある教室で英語を習っている。カンボジア?に2年くらいいたことがあって、それがきっかけで英語を勉強するようになった。BBCやCNNなどのニュースも聴くようにしている。
参加者4 ピアノを始めた。子供の頃に習っていたがずっと弾いていなくて、弾けなくなっていることに気付いたので始めた。驚くほど練習している。夜遅くなる用事があるときには、まず練習してから外出するようにしている。
参加者5 自分が教員としてやってきたこと、授業実践を文章にまとめる。執筆というほどではないのだが、プリントして仲間と共有している。
参加者6 前任者の転勤にともなって行きがかり上野球部顧問となった。5年目だが、やってみるとおもしろい。技術指導はできないが、部活動の運営に一生懸命になっている。今日も練習が気になっているが、雨のために練習が中止になったので安心して研修を受けている(笑)。
参加者7 始めたばかりだが蕎麦打ちをしている。地域の公民館活動がきっかけ。家では食事当番なので、もともと料理は好きだった。道具を揃えて本格的に。蕎麦を打っている間は無心になれる。
参加者8 写真を始めた。主に風景を撮影している。太り始めたので外へ出歩いて体を動かすことが動機だった。コンテストなどにはまだ出していないが、上手になってきたと思う。
参加者9 外国人対象の安宿(ホステル)でボランティアをしている。教員になる間に海外での生活経験があって、それがきっかけ。まったくのボランティア。受付業務や案内などをしている。
参加者10 いろいろなことで気になることについて、とことん調べる。Wikipedia,新聞、雑誌、TVなどあらゆる情報源を使って調べる。最近、鉄腕アトムとドラえもんはどちらが大きいかわかった。
参加者11 ラグビーの写真を撮影している。子供が大学のラグビー部にいる関係で。風景や人物は構図が難しいけれど、ラグビーの場合はこれぞというシーンは選手が作ってくれるので、そこを逃さずに撮影する。
【Work01まとめ】
というように、内発的動機に基づく活動について語るときの目は輝いている。授業を受けている子供は?そういう状態に子供がなっているかどうか。
【作業と実践】
やらされている仕事 vs 自ら向き合う実践
当然だが、自ら向き合う実践のほうがパフォーマンスは高い。
やらされ仕事
・学習事項が外発
・問いが外発
・方法・答えが外在
・知識の意義が不明確→(指導要領には書いてあるが生徒にとっては不明)
・アイデンティティが不明確→(自分が誰として取り組んでいるか、どうして取り組んでいるかがわからない)。何のために水温変化を調べているのかわからない。自分がやらされていることの意味がわからない。やらされ仕事たる所以である。
・生徒が自分から問わない授業はおもしろくない。
【学校はそのままでは実践のコミュニティではない】
逆説的ではあるが、学習するのに一番困難な場である。
その対極にあるのは、囲碁クラブ、少年サッカーなど子供が自分から求めていく場である。子供たちははじめから動機を持って参加している。
【教室の特徴】
・目的が希薄(学業外、成績以外の目的なし)
・メンバーは任意(地域の子供が集まるだけ)
・練習はあれど本番がない(試験は本番か?社会的には本番ではない。)
・基礎はあるけれど応用はない(いつ応用が来るのかわからない)
・損も特もない(失敗できる場所であるが、成績良い悪いはあるが、損得はない)
・あえてつけないと動機がない
・児童生徒でしかない。誰として、何のために取り組んでいるかわからない。
【教師とは】
学習に不向きな場所で学習させるための工夫をする仕事、学習環境のデザイナーである。
→やらされ仕事を文化的実践へ
→実践のコミュニティ作り
【内発的動機】
外発的動機は、薬で言えばオブラートや糖衣:苦い薬をだまして飲ます。
内発的動機:必要性を理解し、苦くてもすすんで飲む。ギターを上手になりたければ、指が痛くても練習する。
【好奇心の喚起】
×:教材・教具の工夫(オブラート:動機がないという構造は変わらない)
○:大きな文脈(コミュニティ)の工夫。そこに参加したくなるような工夫
どうしたら人は内発的に理解を求めるのか?どうすれば,自らもっと知りたい、もっとわかりたいという思いを持ち続け、更なる学びを探求するのか?
内発的動機が湧く文脈とは何か?個人の特性にしか見えないこともあるが、それでは夢も希望もない(「そいつは勉強不得意なんだ」ではなく、教師だからそこを工夫する)。動機をどうやったら湧き上がらせることができるか。猛烈に勉強する生徒と、しない生徒が正規分布の両端にいる。それをそのままにしていては、教師の仕事とはいえない。
【参加としての学習】
参加としての学習とは、頭の中に知識・技能を入れることではなくて参加すること。
【Work02】学校で学んでいないのにできることは?
・電話をかける
・切符を買う
・お金を振り込む
・iphoneの使い方
・咳の仕方・くしゃみの仕方(日本だとハクション、あめりかだとアチョー)
・じゃんけん(日本中同じルール、メディアを経由しないで広まった。最たるものが言語。誰も教わらないのに日本語をしゃべっている。)
・店や出かけたときに失礼でないようないい方でお願いする方法(できない人いるけれど)
・学校で子育ては学ばなかった。風呂の入れ方などもろもろ。
・トランプゲームなど。(トランプゲームを開発しろといわれると大変難しい。大貧民はどうやって思いついたのか?)
・今までに出てきたことは特別支援では全部教えること。指示に従うなども教える必要がある。
・嘘をつく:上手につけるようになったか?子供たちの嘘を見破るとか、嘘を上手について飲み会に行くとか、自分の子供が上手に嘘つくのに愕然としたり。
【Work02まとめ】
学校だけで全部を教えているわけではない。学校は特別な学びの場面を作る。
日常の中で学ぶ。
実例1:コスプレイヤーたちはそのコミュニティに参加し、学習する。ドレスメイクとはまったく別の作り方でコスチュームを自作する。着ることができて、ある程度の耐久があればよい。コスプレイヤーののコミュニティに入るためにはできるようにならなければならない。個人の独創ではなくコミュニティの文化的実践である。彼女らは,いろんな制約を作っている(会場の外でコスチュームを着てはいけないなどのルールなど)。コスプレイヤーのコミュニティに受け入れられるためにはその文化を実践できなければならない。
「学校」という制度は200年。大発明だった。効率良いように見えているが、実際には効率よいわけではない。学校としての教え方に合った正規分布の右端の生徒にとって効率が良いだけではないか。200年の歴史、饅頭屋の老舗は300年以上。日本の学校はまだ実験中といえるのではないか。アメリカから輸入した。そんな若い国からわざわざ輸入した。明治5年くらいから。
日本人らしさ、性差、コスプレ・・・etc,「経験によって、できなかったことができるようになること」を学習と呼ぶならば、これも学習(好奇心に満ちた)である。
学校の学習との違い:
・驚くほど多くの人がほぼ間違いなく習得すること。
・ほとんどの場合、それららしい苦労を伴わないこと(楽しみながら)
実例2:オートバイの乗り方。暴走族たちは、暴走族に見えるように、蕎麦屋の出前には見えないように、「学習」している。
・佐藤(1985)暴走族のエスノグラフィー
・Eckert(1990)は高校におけるエスノグラフィ
【学校だけが知識を身につける場ではない。】
いかに授業・活動をデザインするのか→個人のデザインではなく、場(コミュニティ)のデザインとして。
学校に向く・向かないというのは個人の特性として理解されてきたが、そうではなくて「場のデザイン」に原因があるのかもしれない。「人には必ず輝く場所がある」とよく言うが、それは本当かもしれない。
2割だけを利してよいのかという疑問。科学の出番ではないのか。個人の責任に帰させるのではなく、場のデザインの問題ではないのかという問題意識。
【個人の能力が可視化される授業のデザイン,見えないようにする授業のデザイン】
ある授業では、「三角形の色タイルで形をデザインする」という課題があった。『できたら紙をわたすから書きなさいという』とやった。その授業デザインのために、いつまでもやっていてできない生徒が見えてしまう。可視化されてしまう。はじめから紙を配っていればそれはわからない。公園で走り回っていても、個人の走る能力はあまり見えないが、徒競争させると速さが可視化される。
【学びの条件】
レイヴとウェンガーの正統的周辺参加(LPP)の理論。Jean LaveとEtienne Wenger著,佐伯胖訳の「状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加」。その著書の中で,「学習とは実践共同体への参加である」とする。
学習の成り立ちに必須だと思われてきた教育(「教え込み的教授行為」)や,テストや賞賛や非難がなくとも、普段の社会的実践の中でほとんど誰もが一人前のメンバーになる。この本で、学校の話は出さなかった。学校以外の場所で、人はこれだけ学んでいるということを言った。社会的実践の中で,ほとんど誰もが一人前のメンバーになる。
学校との対比で多くの人が驚いてしまった。
【鍵は「参加」という形式】
「正当性」という概念は、その共同体の一人前のメンバーになろうとして参加していることを指している。古参者を見て「ああいう人たちになろう」と。その共同体の「跡継ぎ」になろうとしているから「正統的」である。
日本人に正統的に参加した。日本のこの文化に参加した、跡継ぎになった。だから日本語をしゃべるし,日本人らしく振舞える。
跡継ぎになるくらい強い参加:それができれば。そういう強い動機を持つことができるような授業デザインができれば。
【動機なき主体】
学校において学習者は、技能の「やりかた」には習熟しても、「誰」が「何のために」その技能を用いるかの理解を往々にして欠く。
その技能の使用の文脈を持たない。
その技能を用いる動機を決定的に欠く
実例:サンリオに入社した社員:キャラクター人形の球状の頭にペンキがどれだけ必要かを計算する必要があった。球の表面積を求める公式を初めて実用的に使った。
学校という文脈や動機はあるが、本来応用すべきはずの(卒後の現実世界の)具体的な文脈や動機とは距離がある。
→子供は、そのことを勉強するために勉強している。学校は行くことになっているから成り立っている。しかし、それは我々の本意ではないはずだ。
【取扱説明書】
動機なき技能の学びは、たとえば用途が書いていないにもかかわらず、詳細に取り扱い方法を書いた取扱説明書に似ている。
【難問】
特に社会的に意義ある実践をおこなうために組織された共同体ではない教室で、社会的に動機付けられた参加をいかにして構成するか。
集めて教えたら応用できるか?野球を見たこともないのにキャッチボールだけを教えて、野球をしたくなるか。
ドミニカのペットボトルキャップの練習:あれを学校に持ち込めないか?
【好奇心を引き出す文脈:RISP】
・Real:活動自体がリアル(日常だと当たり前、学校ではそうでもない。点数がつくと言う以外のリアリティがあるのか?)
・Identity:アイデンティティがある(自分が誰か。日常ではわかりきっている。賞賛されたい。翻って学校では、自分が誰で、何のためにそのことに取り組むのか)
・Social:社会的意義がある(何でそんなことをするのか。何に必要なのか。手紙ごっこを子供はするが、それは社会的意義に敏感だから。暴走族だって、やらされ仕事ではないから,内発的動機があるからその「実践共同体」に入って学ぶ)
・Perticipate:実践のコミュニティに参加する。(そのことに参加しているか、写真雑誌があったり、関連する道具が合ったり、ちゃんとそれを受け入れる場がある。学校ではそれが見えない。分数の通分:それを利用するコミュニティがあるのか?ピアジェは,日本の学校で通分を教えているのを見て驚いたという。)
もし社会が全部つぶれて、一から学校を作るとすれば、何を教えるのか。火の起こし方?安全な食べ物の探し方?ベートーベンはなんとなく必要みたい。そうしてゆくと今の学校になってしまうか?
1980年代、ニューヨークで財政難から音楽を学校で教えないことにしようかという議論があった。自分が学校を作るとすると、なにをするのか?相当考えたけれど、教え方はかえるにしても、教える内容は今の学校に近いもとになりそうだ。
【英語なら(簡単な英語で、海外の人とメールさせる)】
R 学校の外のこととつながる。
I 誰として取り組むか。
S なんの役に立つか
P 日本人の英語
本物とつなぐ、社会の実践とつなぐ
【美術なら】
R アートの意味や価値
I 表現者、鑑賞者として
S 自分にとってのアートとは
P 勉強ではなくアートに向きあう
【音楽の授業で】
日本の伝統に触れる単元で、琴の学習なのだが、琴の写真も、音も何も出てこないのに琴の部品の名前を覚えさせる。これは,エグザイルを鑑賞するのではなく、「エグザイルは何人のメンバーですか?」のような話である。
【理科なら】
R 自らの生命や健康の基礎
I 生活者、生活を科学で見直す
S 勉強ではない人間の機構
P 日常の当たり前をストレンジに
科学の目で世界を見る。
【アメリカのキッヅネット】
酸性雨を研究する。センターにデータを結集させる。酸性雨地図が描ける。社会とつながっている。理科の授業だけれど、社会的意義がわかる。
【教員は現学習者(宮崎清孝)】
教員は,生徒に先立って学ぶ人、味わう人、鑑賞する人(もう一度学習しなおして見る、味わって見る)であるべきだ。
リアリティ、アイデンティティ、意義、参加が、「勉強すること」だけになってないか点検してみる(そもそも、誰として取り組んでいるのか)。
自分にとって対象単元は何なのか。
生徒の生活(Quality Of Life)の質を上げるためということが目的なのではないか。知っていることを教えるのではなく、味わいなおし、学びなおし、それで教える。
【Work03】
「内発的に動機づける」うえでこれまで経験した困難点を挙げて下さい。
二進法を教えるときに,生徒から「これが何で必要なの?」と根源的なことを質問され,絶句してしまった。
【学校のミッション】
○卒後の生活の質の向上 QOL
×学校での達成
学校の生徒にすることが目的で授業をやっているのではなく,卒業後の社会に受け入れられるために教育をしている。
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