2010-09-21

恩師の訃報

 大学時代の恩師である岸井守一先生の訃報が同窓会のメールで届いた。9月20日に逝去されたそうだ。体育の先生だったので授業は1年生のときにしか受けていないが、神戸商船大学創立以来の名物教授だった。

 30数年前の入学試験は神戸の本校舎の他に東京と福岡で行われた。私は東京教育大学(現筑波大学大塚校舎)で受験したのだが、そのときの試験監督が岸井先生だった。2日間にわたって行われた試験が終わったとき、我々受験生に先生が「それでは、みんな、深江で会おう!」と仰ったのが印象的だった。

 大学1年の時の体育実技は通年1単位、夏季集中1単位で、その夏季集中授業は全学部の1年生が、といっても商船学部しかないので3学科200人だったが、淡路島に1週間合宿して水泳の授業を受けた。早朝の体操、清掃、午前と午後の水泳実習、夕方の清掃を毎日行い、最終日に2時間余りの遠泳を行う。授業というよりは訓練といった様相で、実際、教官も我々学生も「体育実技」というより「水泳訓練」と呼称しいた。実技指導は専任の体育教官の他に、近隣の大学から非常勤講師の応援があって、水府流などの古式泳法も教わった(「水夫流」と思っていた学生は多かったのではないか?)。生活指導は2年生以上の上級生が行い、食事当番や清掃、就寝前の巡検などはすべて上級生の指導に従った。その水泳訓練の総指揮が岸井先生だった。とにかく安全ということに気を配って、水泳訓練前には学生の心電図をとり、遠泳では地元の伝馬船を数隻雇って編隊の警戒に当たらせ、創立以来の毎年の水泳訓練を無事故で継続された。

 先生はまた、私が所属していた柔道部の顧問で、近畿地区国立大学柔道大会では専門委員の席からいつも我々の試合を気にしていらした。3年生のときだったと思うが、その近国体に出場したとき、得意でない寝技戦になった。私は上から押さえようとし、相手は下から私の首を締めた。私は立って組みなおすよりもそのまま押さえ込んだほうが早いと判断して、締められるのもかまわずに押さえ込もうとした。しかし、相手の締め技のほうが先に決まり、私は「落ちて」しまった。

 その様子を役員席からご覧になっていた先生は、試合後に私のところに近づいて来られ、目にたくさん涙を溜めて「商船大生は『参った』をせんからなぁ!」と声をかけて下さった。誰が見ても、私自身でさえ、あの場面では立って組みなおすのが順当で、全くの私の失敗だったのだが、先生の目には私が「商船大生らしく」、苦しいのを「負けじ魂」で我慢したと写っていたようだ。負けた選手を叱る指導者もいるが、自分の落ち度で負けたのにそのように言ってもらえて面映くはあったけれど、なぜ負けたのか、叱られるよりも深く反省し、その原因が強く胸に刻まれたものだ。

 先生は我々商船大生を我が子のように愛していらした。いつも私たち学生の落ち度には両目を閉じて、ほんの少し頑張ったことに対しては実際以上に褒め称えてくださった。先生に授かった薫陶は一生の宝、惜別の念をお伝えできないことが悔やまれる。

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