2010-01-04

ISCAR+DEE(認知科学会)大会

 筑波大学(茗荷谷)で開催されたISCAR+DEE(認知科学会)大会に行った。
 午前のセッション1「教師の学びと子供の学び」
  宮崎清孝先生(早稲田大学)
  有元典文先生(横浜国立大学)
  高屋景一先生(國學院大學)
   の発表と討論

 午後のセッション3「新しいつながりとしてのサブカルチャー」
  岡部大介先生(東京都市大学)
  石田喜美先生(財団法人東京都歴史文化財団)
  土橋臣吾先生(法政大学)
  柳町智治先生(北海道大学)
   の発表と討論

 講演
  James V.Wertsch(Washington Univ. in St.Louis)先生の「Mdeiation as a Core Construct in Sociocultural Analysis」を聴いた。これは英語での口頭発表だったので(日本語で聴いても同じだろうが)私にはとても難しかった。しかし,最近気になっているビゴツキーとミードの話題だったので,直接講演を聴けてよかった。

以下は,セッション1,3とワーチ先生の講演聞き取りメモ(ほとんどベタ打ちのままながら)
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リゾーム的社会における新しい生と学習のネットワークの可視化とデザイン
宮崎清孝先生(早稲田大学)
茂呂先生の問題提起より

野火的な活動(wildfire activity)

異なる場所、コミュニティ間の移動
活動理論における「移動論」
状況的学習論やテクノサイエンス研究に由来する境界横断論

たとえば
かつてなかったような新しい他者との出会い方とつながり方が必要となる。その出会いとつながりは、さまざまなローカルな場所で、共同的な新しい学習を生み出しつつある。 教育実践の現実の中でリゾーム的ネットワークは現存する、ように見える。

「ネットワークの構築とネットワーク間移動としての教育実践者の成長と子供への波及」 教師や保育者などの教育実践者の成長を、社会的なネットワーク間の移動による実践者の自己の変容として捉える。

0900~1030 セッション1 教師の学びと子供の学び
第1演者
高屋景一先生(國學院大學):Egan(カナダ、Simon Fraser Univ.きわめてユニークなVygotsky学派)とそのimaginative education research groupについて)
EGANのもとでPh.Dをとった人。Imaginative Educationのグループはとても面白い。

『心理学は教育に役立つか』の著者(キエラ・イーガン)
アメリカ、カナダなどでは、学者として自分の研究と教育活動をするためにはお金が必要であり、そのお金は自分で稼がなければならない。そのため、彼は専門家でない人にわかる形で本を書く必要があった。彼はアイルランド出身なのだが、アイルランドにはストーリーテラーの伝統がある、一般の人には読みやすい、理解しやすい。しかし、専門家からは物足りないと思われている。

An Imaginative Approach to Teaching を翻訳したときに、デューイなどとどう違うのかと質問を受けた。
イーガンは今までの教育理論とは違う。
1.アメリカの進歩主義の教育と違うと主張したかった。
2.ビゴツキーの考え方を取り入れている。
IERG:たくさんの人が参加している。
大学院生その他の研究者を養わなければならない。私も走して研究させてもらった。お金を集めてくるうえでは、研究が実際に役に立つことを証明しなければならない。

高屋さん:imagination概念の研究をしている過程でイーガンに出会った。
想像力について研究している人は多数いる。僕がイーガンに注目したのは、想像力というと芸術関係に行く人が多い、伝統的な教授法などから離れようとする人が多い、美術だなどという方向になり勝ち。しかし、イーガンは伝統的な教授法・日々の授業を知的に、意義あるものにしようという方向なので、注目し興味を持った。

マーク・フェテスが加わった。カナダ:ファーストネイションズ(先住民族)の学校への援助を研究している人。カナダ、バンクーバー。彼らをどうしたら援助できるか。などを研究している人。

イーガンの理論とは:
カリキュラムにあるすべての知識は人間的な源。
文化的反復説:個体発生は・・・を繰り返す。
子供、はじめにはなし言葉を覚える、その次に書き言葉を覚える、そして抽象的な言葉を覚える。

4~5才の子供は、シンデレラの話を聞いたときに、カボチャが馬車になる過程の科学性を問わない。しかしもう少し年齢が進むと、ウルトラマンの変身に科学的な根拠を求める。話し言葉→書き言葉→抽象的な理論。
知的な道具・・・それを授業で使わない手はないだろう。
コミュニティツール、ラーニングツール:知識を教え込む授業は面白くない。教える家庭で使う道具とは
物語、
柔軟な比喩
対概念
生き生きとしたイメージ

『想像力を触発する授業』北王子書房、IERG.netで紹介している。
『子供の学び教師の学び』宮崎清孝
イーガン:アメリカではビゴツキーとデューイを串刺しにするが、イーガンは対立的に論じている。

質問:認知的道具と言うのは『苦いものを飲ませるオブラートではないのか?』
答え:こういうものを使って子供たちが進んで学ぶようにするものであって、オブラートではない。
答え補足:苦いものの中にも面白いものがあるということを発見するための道具であると考えている。


第2演者
有元典文先生:教育実習に3~4年付き添っているのでその話。
大学生のときにアンチオイディプスの本を持っていたが。
リゾーム:地下茎の中でも横に伸びるのをリゾームというらしい。
教育実習ではいろんなことが起きる。制御できない、予測つかないこと。リゾーム的といえばリゾーム的。むしろ何がおきているかわからない雑多なことの中に見通しをつけてやることが教師教育の中では重要と考えている。

教員養成、看護教育などさまざまの職業人養成において、現場の教育が重要とされている。
なぜ現場の体験が必要か。
座学ではだめなのか?
模擬ではだめなのか?

現場は学習機会の沃野か?
横国では、学部の1年から現場に出している。4年目になる。それに引率で付き添ってデータも取っている。大学1年生、18歳で小学校に出向く(つい数年前まで小学生だった彼らが)。リアリティショックもすごい。(コピーのとり方もわからない状況から)。「楽しかった」だけではだめで、何らかの成果、学びが必要。

体験の有用化:有用な体験を引き出す。体験を体験で終わらせないための方策が必要。

学習の機会は偶発的である。
1時間目の体育の授業、担任の先生に「生徒を並ばせておいて」と頼まれたが、「ただ30人の生徒を並ばせるだけのことが私には出来なかった」という体験。

教育実習:単なるナイーブな体験から、学習成長を可視的にするテクノロジー。
現場の発達ゾーン化:体験を学習・成長を可視的にすること。
省察のテクノロジー:
スタンダード(教職のための行動目標と評価基準)
スーパバイザによる授業解説(退職校長など)
振り返りミーティング 
ビデオでの振り返り
ネット上の掲示板等々

これらによって実習を資源化する。
しかし、場合によっては危険もあるし、責任がある。

責任の例:
・屋上はとても暑く、プールサイドで見学している子供の熱中症などにも気をつけないといけないと思った。
・バッターボックスの近くには座らせないなど。

現場の現実味:この現場の現実性が、体験による学びの特徴である。
教員のスキャフォールディング(足場作り、よくわかっている人が学習主体の行為を方向づけること)が必要。

熟練のアイデンティティの価値化。教師がやっているように自分は出来なかった、声の出し方、声の通り方、机間「巡視」(変な用語だが)での生徒の接し方・・・

教育実習という体験
やりっぱなしでは体験が消え去ってゆく。体験をなぞって学びにつなげる必要がある。
責任について:たとえば大人に育てるのに大人学校に入学させるのはナンセンス。一方で、運転学習者を交通社会に放り込むのは社会と学習者双方にとって無責任。

短い実習期間に、大学の講義として効果をあげるなら、学んだということをマークアップしなければならない。それが教育実習における我々の仕事であると思っている。授業研究の道具を携えさせる。

リアリティショックの緩衝材として
現場の負担感のガス抜きとして
現場を学習の資源に
偶発を拾い上げて学習に:構造化
現場の混沌をどう見させるか、どう見るか。

質問:教育実習は、現場のコミュニティと学生のコミュニティが出会う場なのか?越境なのか?どんな風に思っているのか。
答え:現場が一番大切と思っている。越境でなくて移民のように思っている。小学校に大学生が出向いて、大学生が現場に提案などおこがましくて出来ない。
質問:教育実習は普通学生だけが行くが、教員がついていくと言うのはどういうことなのか?僕は教員が教育実習についていくのは、現場との連携、リンクする機会になっていると思う。普通は最初と最後だけなのだが、ずっといるのですか?他の学生を連れて見に行くのですか?僕は学校というのはひどい場所だと思っているのだが、どう思っていますか?
答え:週に1度の実習だが、ずっと一緒にいます。朝の打ち合わせから終わりまで。校長は、現場に緊張感をもたらせるのでよいと言っている。僕は、教師が大学と触れ合う良い機会と思っている。それは道半ばだが。
質問:ベテランの教員は神業に近いと思う。新人は子供が見えてないとベテランは思っている。新人はベテランに対して自分は子供が見えていないとへこむ要素がある。どの現場に軟着陸させていくか。
答え:そもそもこの実習は卒業必要以外の単位である。モチベーションの高い学生が参加している。自分のふがいなさにも気づいているが、他の学生に対する意見も持っている。軟着陸ではなく、現場になるべく長くいさせることが目的である。

第3演者
宮崎清孝先生:現職教師の学習(斎藤教授学の「研究会」)
イーガンの理論はパッケージ化したカリキュラムと相対する理論。
教師の学習:「会」というコミュニティ
民間教育運動、epistemological (ideational) network
文化の中のさまざまな見方・声(bakhtin的な)
「会」(group):官的制度と対立する制度
公式的・学校<内>的存在(官的研究会)と対立して学校内にある。
水道方式の算数教育等々の「会」がある。

それらの「会」は、新規参加への道が不確実
学校内(見戻った際)の対立
個々の授業についての困難:「学年全体で」にからむ諸問題
校長として:全体を見た場合に新しいことを持ち込まれることへの警戒感。

斎藤教授学:斎藤喜博(1911-1981)とその弟子たちによる実践知の集積

教授学研究の会:
休み期間での合宿研究会
月例研究会
機関誌(千葉・茨城でそれぞれ作成)
メールマガジン
メール

やっていること:模擬授業、実践の報告、

「会」で何をやっているのか?
何を学んでいるのか?教師の学びとは何か?
教師の学習の二種類せい
pedagogical learning 教え方についての学習
epistemological learning 
教材解釈
単なる知識の集積ではない
教材の探求:教材についての新しい発見
協同的な教材開発。教材について、声を出し合うことの支援。
他の声とつながる、多声的になる

質問:ほとんどの先生は、教えていることがなんの役に立つのかの説明をしない(できない)。
答え:役に立つことではなくて、教える内容の面白さを発見する、それを授業に取り入れる。そこが「会」の目的。

セッション3
新しいつながりとしてのサブカルチャー
このセッションの趣旨について 岡部大介先生(東京都市大学)
発表1 石田喜美先生(東京都歴史文化財団)
発表2 土橋臣吾先生(法政大学)
コメント:柳町智治先生(北海道大学)


岡部大介先生:セッション3の趣旨について
12月29日から30日、東京ビッグサイト、コミックマーケットが開催された。
同人誌、コスプレイヤーたちの集い。
80年代のオタクを取り囲む話題が変化してきている。
オタク的趣味が、社会的つながりの中で社会性を帯びる。
東 浩紀「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)p41シミュラークル ←注1
シミュラークル、ボードリアールが提唱した概念。←注2
シミュラークルとは、複製可能なもの(ゲームのキャラなど)に息吹を与えるもの、消費対象となる。(オリジナルとコピーの区別がつかなくなったもの)。
こうしたしミュラークルを生み出す社会
かつてのお宅的な人々から、ライトオタクへ裾野が拡張
オタク文化がコミュニケーションの道具として活用されている。
今日のオタクは社会性を帯びている。
ソーシャルな空間に生きるオタク
OFF: コミケのような場
ON:mixi、ツイッターなど、pixivと言うのもある。

大学のスペースでポケモンバトルしませんかの張り紙して集う学生
秋葉のマクドナルド、初対面の人が集って,PSPで遊んでいる。遊ぶ予告は2ちゃんねるで。
オタク:ソーシャルメディアの中で、あるいはともに、それらによって作られるローカルの社会的関係においてコンテンツを消費する。
コンテンツをひとりで消費するのではなく、ソーシャルな空間を構築しながら消費している。
何がオタク的コンテンツとして面白いのかは、ローカルな社会的関係の中でしか生まれない。

さまざまな場所、コミュニティの間を移動しながら新しい・・・

このセッションでの発表ふたりから。コメントひとりから、そのあと質疑応答。


石田先生:高等学校で見られる「現代視覚文化研究会」
土橋先生:生活編集装置としてのケータイを利用した質的調査の可能性について

第1演者
石田喜美先生:境界的オブジェクトとしての「オタク」
A高校におけるオタク
オタクの従来の定義:アニメ漫画などの熱心なファン、二次元ロリでやや対人関係に難あり」
「オタク」の拡散、『オタク』はもはや『普通の人』の意味
誰でも『オタク』を自称・他称出来る。
現代におけるオタクとは
日常の中で個人やコミュニティ同士の関係性をる一定の意図に従って組織化するための道具。
学校サブカルチャーへの注目
学校サブカルチャーとしてのオタク的文化、「オタッキーグループ」などと呼ばれて存在した。
A高等学校のサブカルチャー 男子4割、女子6割
マジョリティは「ギャル系」男子がいても「ギャル系」
隠れオタクはいるがオープンにしていない。
調査方法:グループインタビュー
「現代視覚文化同好会」として生徒会から認可された。

A高校
「ギャル系」がマジョリティ    「かくれオタク」は不可視だった
「現代視覚文化同好会」設立によって、かくれオタクが可視的になった。

男子を中心とした「工芸部」は実はオタクだが、「ギャル系」からの批判をかわすために、オタク女子をそそのかして「げんしけん」を設立させる。そうしておいて、「工芸部」は「げんしけん」との関係を絶ち、ギャル系(マジョリティ)からの批判をかわす。

「げんしけん」を境界的オブジェクトとした。なぜ「げんしけん」がそうなったか。ほんとうは「現代視覚文化同好会」なのに、社会的に「オタク」集団とされている「げんしけん」を自ら名乗っていた。

一般社会の 「ギャル系」対「オタク」の関係が
A高校内の「ギャル系」「げんしけん」に持ち込まれている。
しかし、一般社会では「ギャル系」はマイノリティなのにA高校内においてはマジョリティになっているので、彼らの関係性は一般社会とは変容している。

個人→コミュニティへの複層的な参加


第2演者
土橋臣吾先生(法政大学)
KeitaiーGal
「ギャル」のケータイ的都市経験。
シャドウイング調査、ケータイのヘビーユーザをシャドウイングした。

「ギャル」のケータイ利用行動を追尾してきろくする。
Actant1 ギャル
Actant2 ケータイ
Actant3 都市空間
人ー物(human-object)
Gun-CITIZENに関する議論(B.ラトゥール)
銃が人を殺すのか、人が人を殺すのか?
銃が殺す「銃規制論者」、(唯物論者の答え)
人が殺す「全米ライフル協会」、(社会学者の答え)
銃ー市民(Gun-Citizen)が殺す(ラトウール)の答え
特定のエージェンシーは人でも物でもなく、人と物のネットワークの効果として生成する。

観察されたケイタイギャルのふるまい
頻繁かつ多様なケータイ利用・・・通話/メールのみで7時間に30回以上、その他にbbsや「リアル」のチェック、動画コンテンツの視聴など。通話用とメール用の端末を持つ。
あらゆることへの場当たり的対応・・・そもそも調査の予定自体が決まりにくい「けっこう場面な感じな上に終電までとかだと思うんですがぁ、それでもいいですかぁ?・・・」彼女たちの特異な用語。「場面で」・・・その場その場で決めること。何をするかはあらかじめきっていない。というよりも、基本的に「しゃべる、騒ぐ」がメインなコンテンツ。が、場所のレパートリーは厳密に決まっている。誰と遊ぶかもあらかじめ決まっていない。
都市のニッチ(ニッチ(英: niche、フランス語読み:ニーシュ)は、生物学では生態的地位を意味する。1つの種が利用する、あるまとまった範囲の環境要因のこと。wikiより)に「居場所」をつくる。・・・自分たちに「ふさわしい場所」はきまっている。たとえば、マック、Cafe AYA(歌舞伎町の激安喫茶店) など。安いからと言うだけではない。手近な選択肢から選ぶ。自宅化するCafe AYA。
都市には文化があるが、彼女らは新宿では新宿の渋谷では渋谷の文化を利用するということではない。

Keitai-GALのエージェンシー
いま・ここのCUT&MIX
ケータイのアーキテクチャ 場面で選択
都市のアーキテクチャ   場面で選択

ハイブリッドな社会空間を「場面」に最適化した形で創出

ケータイのアーキテクチャ的特徴 常に行為の選択肢=リソースとして身体に密着した状態にあること。
ケータイヘビーユーザギャル・・・都市をもそのように利用。

コメント:柳町智治先生(北海道大学)
新しい日本語教育の位置づけ
例1.競馬新聞での日本語の文字学習(インドネシアからの留学生)、競馬新聞は感じとカタカナしかない。中国語使用なので漢字は問題ない。ひらがな苦手、サブカルチャー的学習。
例2.EPAのプログラム:インドネシアからの看護士、介護福祉士。このプログラムは日本語学習がネックになって、崩壊しかかっている。日本人にとっても難しい国家試験を日本語で受験しなければならない。
メインストリーム的な教育、学習のデザインの限界を感じている。

これらとサブカルチャーとのかかわりはわからないが、メインストリーム的学習とのかかわりを考えたい。

サブカルチャーと言うのが良くわからない。「オタク」がサブカルチャーなのか?メインは何か?

おそらく量ではなく活動が人工物やアーキテクチャを媒介として組織化されていくその様相にあるのだろう。
コミュニティによる境界構成のダイナミズム
人,モノ(ケータイ)、あーきてくchとのかかわり。非常にフレキシブルな世界。
ユーザー、ヘビーユーザと言う概念。学校的な教育の文脈の「学習者」とは違う。

実際にどう使うかはユーザしだい。それが次のデザインに影響をあたえる。相互行為的。かかわるどのアクターも相互依存的、相互参照的な関係にあり、次第に変わっていく。そのことが事前に了解されている。
しかし、学校はそういう前提が乏しい。
学習者を「ユーザ」としてとらえおす必要があるのではないか。
スキル学習の面は切り離してもいいのではないか。言語そのものを学習しているのではなく、言語をツールとして使用することを学んでいる。

留学生:デジタルネイティブとして育っている。
電子辞書を持っている、オンライン辞書を使う。学習者が自分で気になった語彙を検索する。授業とはかかわりなしに。生まれたときからデジタルを使っている。
新聞や雑誌の記事=電子ファイルで課題として渡される。
読める読めない=自力で呼んだかどうかを問うことの意味が薄らいでいる。リソースをどのように使うか、リソースとのかかわり。
コーパス辞書、教師が何でも知っていると言うことの前提が崩れている。英辞朗、コーパス辞書なので用例がたくさん出ている。教師も知らなかったような表現がある。教師がすべてを知っていると言う前提が揺らいでいる。
フォーマルな、メインストリームの学習環境のデザインがどのようなものになるかが浮き彫りになってくる

質問:たとえば、博物館、アマチュア科学者と学者とのあり方が違う。学校では自由が認められていないが、アマチュア科学者はかなり自由な発想が可能。疑似科学者あるいは危ない人たち。宇宙を語る人たちが集まれば、すべての力は「圧力」と言ったりする。すると学者は反論するが、言い出した人を納得させることが出来ない。カルチャーとサブカルチャの関係に類似している。
答え:げんしけん、工芸部へのインタビューはやったのでしょうか。大掃除も年賀状も用意せずにコミケに集まったと言うことだったがそれは裏を取ったのか?
答え:私も2日目に行った.夏の場合は盆の墓参りに行ったのか?との挨拶言葉。裏は取りませんでした。
質問:自分は民俗学者でもある。言説レベルのことと実際レベルのことを区分けする必要がある。
答え:工芸部のインタビューもおこなったが、彼女ら「げんしけん」の側からのこととして発表した。

質問:セルトーノアプロプリエイションの超簡単な説明。
答え:腐女子文化についての議論で言えば、彼女らの消費の仕方。
少女漫画のきらきら瞳に嫌気してきたので少年漫画を読むようになる。しかし、少年漫画には彼女らの居場所がない。そこで2次創作を始める。
質問: オタク文化そのものが戦術であると言うことも出来ますね。
答え:既存の者から創出してゆく。
質問:『銀魂』の越すプレがわかる程度のオタクだが、去年国際ガンダム学会の準備をした。オタクたちの消費の仕方を医療安全に使えないか。「おこさせてはならないこと」をリアルに伝えることが出来るのではないのか。医療事故をリアリティを持って伝える方法としてオタクのソーシャルな空間を利用して医療安全に使えないか。
答え:リアルとリアリティの違いは?
質問:リアルは生、リアリティは・・・
マニュアル文化ではだめだ、シミュレーション教育が必要と言われ始めた。


午後
1315より

James V.Wertsch(Marshall S.Snow Professor in Arts and Sciences. Director,McDonnell International Scholars Academy. Washington University in St.Louis)
Mediation as a Core Construct in Sociocultural Analysis.

通訳:ソーヤー理恵子先生

Sociocultural Approach:ビゴツキーとルリアが使っていた用語ではない。
社会文化的なアプローチでは、研究者、プラクティショナー、実践者も文化的、歴史的、制度的文脈の中に状況付けられている。この場にいる皆さんも。
社会文化的アプローチをとっている一人の研究者について話します。
1970年半ば、モスクワにいた。冷戦時代。
ソビエトの心理学、言語に興味を持っていた。ピアジェやChomsky、ビゴツキ、ジョージハーバードミードに興味を持っていた。
やる気にはあふれていたが、ビゴツキらに出会うには誤解を持っていた。

ビゴツキーとミード、2人の理論家の対比を見たい。
人間の精神の社会的起源についての主張は共有、ヘーゲルなどについても共有していた。しかし、ビゴツキーがロシア社会でインパクトを持たれていたのとミードについてアメリカ社会が得たインパクトは異なる。
ロシアの心理学では、ビゴツキーの影響は多大だった。しかし、アメリカでのミードは社会心理学や社会学に対して影響は小さかった。
この二つの違いは、個人主義の国アメリカでは、ミードやビゴツキーは理解されにくい、受け入れられにくかった。

ビゴツキーとミード
ふたりとも1930年代に亡くなった。異なったインパクトを社会に与えた。
ビゴツキー1896-1934
思考と言語
社会歴史的アプローチ

ミード1863-1931
心、自我そして社会
アメリカのプラグマチズムの創出者

これはミードの文献からの引用、意識の社会的起源についてのもの。
社会的活動は意識の前段階だ。意識が社会的な前段階なのではない。

ビゴツキー
意識の中で社会的な次元
意識の個人的次元は派生的である。

同じような歴史的時代にビゴツキーとミードは似たようなことを述べているのに、ロシアとアメリカでは受け入れられ方、インパクトが異なっていた。

Atomism in philosophy and social theory.
哲学や社会理論で使われるアトミズムという考え方。
社会的議論は個人がはじめにあって、その後に社会がある。
社会的起源の議論。

社会的プロセス、個人的社会では理解するに難しい。
ビゴツキー
社会文化的なアプローチ
厳密な意味での理論ではない。還元主義的に何かを予想するのではない。
社会論では厳密な理論というのはない。ビゴツキーは非常にクリエイティブでユニークというよりも彼の時代のほかの理論家たちと多くを共有している。しかし、一方でほかにない貢献をしている。ミディエイション:媒介である。
ビゴツキーは3つのテーマを持っている。それについて話す。
1. コミットメント発達的方法発生的方法への関与
フロイド、ピアジェ、ワーナー、ケーラーなど19世紀の理論家たち
発生的発達的方法という考え方は、起源と発達的変容の探求を示す。
ビゴツキーのアイデアは、発達的方法は現在私たちが考える発達心理学以上を含んでいる。
具体的には、異なったさまざまな領域を見た。
phylogenesis(系統発生論)
Sociocultural history(社会文化的歴史)
Ontogenesis(個体発生論)
Microgenesis
私たちが何かをするときにはいつも状況に埋め込まれていて、人生を通して歴史に埋め込まれている。

高次精神機能の社会的機能
高次精神機能とは人間の精神機能のこと。
この発生の方法は社会的起源から発生する。
文化的発達の一般的発生法則は
はじめは人と人との精神間
つぎは個人内の精神内に表れる。
All higer mentar functions appear twice, on two planes, first on the "intermental"plane, between people, and then on the "intramental"plene, within the individuals......


Parallels with other thinkers(e,g,. Mead), but more radical cleim in Vygotsky
- Not just social origins, but "quasi-social nature"of mental functioning on intramental plane.
Border between social and oindivisual is "porous".

Some mental function appears on intermental and intramental plane.

First sene in which "mind exends beyond the skin"
Can be "socially distributed"
-Productive to examine how dyads, groups use diccourse to think, remember
Adult-child ( ) as gent in remembering.
Other-to self-regulation
-Different intermental functioning => different intramental outcomes.
He cannot remenber where my boots are.
What were you first do when you came back to home?
ここで、誰が彼の記憶を想起したのだろうか?子供でも、私でもなく、私と彼の対が彼の記憶を想起した。精神間の地平でおこなわれたといえる。(地平:plane)
将来的に、ニコラスはブーツをどこにおいたか思い出せるようになる。
What can I do when I come back to home.

Mediation of Mental Functioning.
Most important and unique contributions of Vygotsky in this realm.
Starter his career in philology,literary ///

"Mediater action"as unit of analysis
Active-agent-using-culrural-tool
Cultural tool does some of our thinking,remembering for us.
-"Remembering" Phone numbers
-Intelligence=Mastery of socioculturally valued tools.

45歳や50歳以上の人たちのほうが10以上の電話番号を覚えていられる。
若い人にそれが出来ないのはなぜか?若い人たちは、携帯の中に電話番等を覚えさせているので、自分で覚える習慣がないから。

電話を使えなければ中のデータを読み出すことが出来ない。
しかし、頭の中に電話番号の記憶が入っているのかというとそうでもない。使う人が文化的道具を使えなければならない。

Mediated action as unit of analysis.
Active-agent-using-cultural-tool.

Mediation of Mental Functioning.
Using a cultural tool behore

Based on Vygotsky's clear understanding of distinction between sign form("sign vehicle") and sign meaning.

In intermental functioning can use a sign form or vehicle without full understanding of meaning.

Not the case that we must understand a sign on the intramental plane before using it on intermental.

Mediation as key to understanding.


友人の例:彼は自動車が上手く動かせなくなってしまった。奥さんは車のことが良くわかる。その故障では、「キャブが悪いのでは?」と言えと奥さんが夫に言った。彼は工場に行って『キャブが悪いみたいだ』と言った。工場では車を見て、キャブを直した。サインフォームの意味を理解していないのにサインフォームを使うことの例である。私の同僚である。キャブが何かわからないが、キャブが悪いという表現は出来た。
インストラクションの基本的方法。意味の理解の前にサインを使う。授業しているときにしばしば学生も同じような状況になる。言うことによって理解に到達することも出来る。

これまでの話、ビゴツキーにとって媒介と言うことの意味の話だった。
文化的媒介によって理解が進む。
言語の媒介を通して精神内機能との理解を進めることが出来る。
言語のような文化的な道具を用いることによって、文化的相互作用が可能。
American habit of shought:
1970年代にモスクワに行ったときには強烈な個人主義を持ち込んだと思う。個人的な過程と社会的な過程ということの区別は難しかった。
現在でも英語のメモリーと言う意味は、特別なことがなければ個人内のこと。
コレクティブメモリ、カルチュラルメモリなどのように、メモリに何かをつけなければ特別な意味にならない。
アメリカ的な考え方の習慣をモスクワに持ち込んだのだが
終わるに当たって、記憶が分散するようにコミュニケーションも分散しうる。目の前で皆さんは見た。私がしゃべったのであるが、通訳もそれを分担した。

abduction 日本語では拉致と言うが、心理学では・・・
habit:習慣

デューイ:論理を装具として使ったことを私は評価している。なぜロシアのビゴツキーがアメリカで評価されるのかと言えば・・・

質問:
intermental to intermental
intramental to intramental
カーメカニックも部分的な理解しかしていない。のではないですか?

答え:インターと言っている場合には小さなグループ、小さなインタラクションについて述べている。
ビゴツキーはもう少し広い範囲の、社会的なことを考えている。

社会では意味は分散している。みなが同じ意味を共有しているわけではない。
夫の側で精神内機能が上手くいっていたのかわからないが、(キャブの例で)ビゴツキー、サインが意味から独立して存在していると言うところが重要な点である。

質問:インターサブジェクティビティのスライドをスキップしたのでそれについて説明してほしい。
答え:
Intersubjectivity
Rommetveit and :ノルウェイの社会心理学者(キャブレターの例の男性)
Vygosky
Bakhtin
Never attain total intesubjectivity, but "temparary,partially shared"
Can fundtion at very low lebels throufh sharing on little more than "sign vehicles"
-"Carburetur" example.
新生児は言語を持たないが、母親と目と目でコンタクトをとったりする。
これを社会的起源の理論で用いたりしている。
目と目のコンタクトの次には、発達していって母親が子供の見ているものを追っていって、見るものを共有する。

ロメットバイト氏、間主観性のリミットについて考えた人。
intemental function between
コミュニケーションは完全に理解しあわないとコミュニケーションは出来ないのだろうか?完全に理解しあえたのならコミュニケーションは必要ないとも言える。

ロメットバイトは個人的な考えの人である。
間主観性の研究

とても大きな課題なので端緒に手をつけただけと言うことです。

赤ちゃん(胎児)に対して当てはまる議論なのかどうか質問したい。
適用可能なのかどうか?

面白い質問である。ビゴツキーのパラダイムから言うと、起源と発達の変容、生まれた時点からと言うことにはならないので面白い議論である。
このことについて今の質問がでるまで考えたことがなかった。

メモは以上まで
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「かんしゅかんせい」って何だ?
全部英語でよくわからないけど直接に耳で聞いたままわかるようになりたい。
1月5日(火)に調べたら、次のようなのがあった。
「間主観性とは、後期フッサール,E.の現象学の基本概念である。世界の意味了解は、近代的・合理的・普遍的な認識主体としての個人の主観においてなされるのでなく、超越論的な場における他者と共同体の構成という、複数の主観の共同化による高次の主観においてなされるとした。臨床心理学においても、サリヴァンの「与しながらの観察」やストロロウの「間主観的アプローチ」に端的に見られるように、クライエントとカウンセラーとの間の共生的二者関係の基礎概念となるもの。」(http://www.1-ski.net/archives/000059.html)

注1:「動物化するポストモダン」東 浩紀,講談社現代新書 ←この本,3年位前に読んだ。
注2:ボードリヤール:『シミュラークルとシミュレーション』,『不可能な交換』,『象徴交換と死』などもある。いずれも私には難しかった。1~2年くらい前に亡くなった。

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