2013-12-23

納得研究会(2013年第2回)

2013年2回目の納得研究会が立教大学で開催された。
18名出席で、小中高の教員、大学教員、大学院生、船員、音楽関係者と多彩な顔ぶれだった。
私のブログも3月31日以来の更新。9か月も更新を怠るともはやブログの意味をなさないか?
研究会のあとは「セントポールの隣」で忘年会が開催された。吉岡先生会場の手配をありがとうございました。

今回の研究会は音楽関係2本。

発表1 日常音楽と学校音楽の乖離について(音楽教員)
元音楽教員、中等教育、小学校、高校など初等中等教育の諸校種で音楽教育に携わってきた。
音楽研究ではなく教育から音楽をみる。もともと音楽の学習指導案の歴史をテーマとしてきた。最後3年は中学で。特別支援学校でも勤めた。
学校音楽は多くの人が体験してきている。

音楽の授業で生徒からぶつけられる言葉。それらの背景を探る。
音楽に関心なくても音楽が嫌いという人はあまりいないと思っている。
学習指導要領における「音楽」の目的は、10年前とほぼ変わっていない。
音楽の表現鑑賞、音楽を愛好する心情と感性、基礎的能力、豊かな情操を育てる。

愛好する心情ーーー学校で身につけられるか?
学校以前ですでに持っている?
学校には違う「音楽」があるのか?それを愛好する心情を育てるのか?

(学校):「唱歌校門を出ず」・・・世間では猥雑な音楽が多いから学校では格調高い「本物の」音楽を教えるのだ。という意味。

唱歌科から音楽科へ。昭和16年国民学校令
時期的に(戦争のため)十分には実施されなかった。
器楽、鑑賞、歌唱、創作、音楽理論が正式に取り入れられた。
想像力、表現力、楽譜読み書き、鑑賞力、技術、情操と人間性を育てる。

これは、現在の指導要領に連なる。基本路線は大きく変わっていない。
戦後、GHQの指示で、諸井三郎(作曲家、師範学校出身で無い人物)が昭和22年の音楽科学驟雨指導要領の策定をした。
その後、諸井さんの基本思想がほぼ踏襲されている
指導要領 22年、26年、33年。33年が現在の骨格となっている。

明治期の学習指導案を調べているが、基本的には音楽の授業は大きく変わっていないように思う。
授業で出会う生徒:
歌うことは好き
メロディでないところは途端にわからなくなる。
楽譜でなく歌詞を読んで歌っている。
周りより先に伸ばすのをやめる。早い者勝ちでやめて行く。歌声が途中で消える。
楽譜にドレミを書くがそれが間違っている。
リコーダーを間違って吹いても違う音を出していることは気にならない。

なんでそれができないの?という先生はたくさんいる。

有元先生:楽譜で音楽するのはクラシックくらいではないですか?。

楽譜を読むことは難しい。
音楽を耳で聞いているから歌うには好き。
耳で聞いているので聞き取れないハーモニーのところはわからない。
どこまで伸ばすかわからないので不安になってやめる。
運指とドレミと楽譜を付き合わせて吹いている。

「楽譜を読める」が大前提になっている。
耳コピ、学年が上がると曲も複雑になるので耳コピでは対応できなくなる。
できないとつまらない。つまらないから嫌いになる。
できるようになれば楽しい。楽しければ好き。

音楽の授業が音楽の授業に使われるよりも式歌練習や合奏が多い。
限られた時間の中で巧くみせるために練習が多くなる。
実技と知識の往還の時間が取れない。
儀式などで見栄えのする形を作ることに時間が費やされる。

先生のせいとばかりは言えない。
一生懸命にやった満足感は大きい。
それも出来て音楽の授業ができればと思う。

歌唱、器楽、鑑賞、創作。
積極的に読譜する動機が見えにくい。
かつては高校入試で楽譜が出題された。

(神奈川のアチーブメントテストは、年代にもよるけれど9教科だったので楽譜の問題も確かに出題された)

横国 有和先生、子供が社会に出た時に人生を豊かにする一手段としてそれを実現するための初等音楽教育。
音の響きの美しさを実感すると歌が大好きになる。
小学校の時にいかに劣等感を持たせないようにするか。
楽しい体験を大切にしている。
合奏の楽しさを体験させたい。
音符を読むことと演奏することは始めは一致しない。次はリズム、そしてタイミング。最後にハーモニー。

幼児教育では耳から。はじめは聴くことから。幼稚園の音楽教育では昭和30年代に教科色が強かった。
園児を集めるための方策でもあった。リトミックなど。平成元年ゆとりの頃から見直された。
子供達にとって楽しいことに回帰した。幼稚園教育要領にあるからではなく昔から楽しませるという要素も大切にはされてきた。
それまで唱歌(音楽)には道徳的色彩もあったが、戦後になって人生を豊かにすることが目標となった。その昭和22年の時にも音楽は演奏を通してという基本線があった。

佐伯先生:音楽教育の実践、こうでありたいという実践活動を行なっているわけだが、音楽教育論という意味では、明治期では西洋に追いつけという目標があった。西洋に追いつくために教えるということが中心に行われてきた。他の教科では総合学習のようなことが行われている。学び合い云々はかなり昔から行われている。しかし、音楽では教えるということ、引っ張り上げるということが行われてきた。
一方、美術では「かくあるべし」から始めるべきではないとされている。学習指導要領にも。「成果を求めない」結果を出すということを求めない時間ちゃんとある。それがアートの世界である。
音楽では「鼻歌」でいいじゃないというのはない。それを音楽教育論としている人はいない。
美術にはある。旧来を壊して全く新しく始めるという価値観は音楽教育論にはない。

:音楽は技能教科、技能なので指導しなければならない部分がある。楽器を演奏できなければならない。
:美術では美大に入る前に徹底的に技能を教育されるのでは?それから自由がある。
:音の出し方、音楽の音になる必要がある。
佐伯先生:絵が好きだからそれを達成するためにトレーニングを喜んでやる。好きにならなければ苦痛でしかない。好きになるようにさせる。
:科学教育教えるべきことがたくさんある。面白くなる前につまらなくなってしまう。
:幼児は鉄琴の音がとても好き。鉄琴の音、ちゃんと弾かずに枝で触る子供がいた。枝で触って音を確かめている。音楽の楽しさをそういう方法で受け入れることもあるのかと思った。
:「学習指導要領、思いを込めて」というが、思いはこもるものであって込めるものではないのでは。幼児に「思いを込めましょう」は伝わらないと思う。



発表2 ピアノで意図した音高を実現する技能ーキー位置-音高の記憶形成からー(大学院生)

キー位置記憶に関する実験
研究の背景:
人にとっての音楽行動、人が進化する上で社会的認知的、運動的に重要な役割。
「歌うネアンデルタール」(ー音楽と言語から見るヒトの進化ー、Steven Mithen著、熊谷淳子訳、早川書房、2006年6月)

演奏技能の最小構成とは?
「実現しようとする音」
「体の動き」
「実現された音」

楽譜から「ねこ踏んじゃった」を弾き始めた人は少ないだろう。
アミュージア(amusia:失音楽)、ある種の疾患とされている、音の高低はわかるが音楽として認識できない。

実験: 
条件1・・・机の上に鍵盤の絵が描いてある
条件2・・・机の上にドの位置だけ示してある
課題・・・・ターゲットのキーの位置を人差し指でタップする
指の感覚で位置を推定しないために人差し指とした。
鍵盤の空間的な位置がどのように記憶されているかを調べる実験。

手の大きさでキー位置を測れないように、広げた手の間隔でわからないように人差し指にした。

佐伯先生:
タイプライター、Qwertyキーボードのブラインドタッチに似ているなと思った。
人はキー位置でなく単語ごとに覚えている。
足の指で体の重心を図っている。一秒間に10キー。
一つだけの記憶だけでなく、綴り、その単語を打つ時の体の重心などたくさんの情報を並列で処理している。
並列分散処理研究。シリアルではない。
フルート練習の時、右手だけの音を練習した。休憩の後、あれはちょうちょちょうちょですよと言われたらすぐできるようになった。

タイプライターの練習は今は意味のある単語で練習する。昔はasdfだった。
意味ある単語ならタイプは速く上達するが無意味なアルファベットの練習では上達は遅い。

ピアノの鍵盤は世界共通か?
ほぼ共通だが、黒鍵のサイズが違うのがある。

ギターはストラップの長さでジャンルがわかる。
(若林:棋士は試合の棋譜を再現できるけれど、デタラメに置いた将棋の駒を再現しろと言わると素人とあまり変わらないそうですね。)
チャンクの話になると必ずチェス、将棋、碁の論文が出てくる。

有元先生:日常でも、ちょっとした怪我や身体の具合で生活(世界)が大きく変わる。

:クラシックの人は一箇所間違えると本番で頭が真っ白になる。あの音を出したいから鍵盤の位置はあそこ、というのではなさそう。
ステージ上で初見演奏はない。

:通信士はスピーカーを外して練習させられる。キーのカツカツという音だけで練習する。
モールスはリズム。文章になるとわかりやすい。
一分間125字英文の平文で。
無意味の打鍵はスピード落ちる。

:モニターを見ずにテレビゲームやる友達がいた。
音だけでゲームの展開がわかっている。

:チェリストは曲に合わせて、ピッチを微妙に変える。
ポジション、見えないところもある。
自分のチェロでないと演奏できない。
3/4楽器から4/4楽器になる時は大変。

☆ 中央のドからの距離にエラーが比例していた。

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