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2012-06-16

ジムニー廃車

12年4ヶ月乗ったジムニーをついに廃車した。子供たちがまだ小学生だった頃から成人するまで,179042km走った。毎日の通勤に使うほか,後半の6年は毎年夏の菅平など子供のラグビー遠征を追いかけるのに酷使した。もう1台のルシーダはさらに古くて今年17年目で15万キロ走っているが,今年車検を通すかどうか思案中。


購入して3年目の頃


5年目の頃


同じく5年目の頃


廃車当日


軽自動車とは思えないほどエンジンはタフだし,無骨なラダーフレームに車体を載せているので重いけれどとても頑丈だし,乗っていてとても楽しい車だった。

車は車だから実用性があれば充分なのだが,我が家にとっては仕事と子育てに最も勢いを必要とする時期に活躍した車なので愛着もひとしおだ。

曽祖父の頃には馬を日常の足として使っていたし,祖父は戦後しばらくまで農耕に牛を使っていたのだが,馬や牛が年老いて死んだときには,車を廃車するどころの感慨ではなかったのだろう。


祖父と大叔父,牛突きの牛と曽祖父が日常の足に使った馬

2012-05-27

結婚27周年を祝う

結婚27周年をプランデルブ北鎌倉で祝った。北鎌倉から山手のほうに入った住宅街にあって,もとは個人の邸宅だったのをレストランに改装したのだそうだ。

店の入り口




北鎌倉駅から店の車で送迎してもらって,昼からワインで乾杯した。ふたりで1本あけてホロ酔いの良い気分。




"Bon Mariage"のプレートを飾ったデザート。


毎日のことをこなしているうちに子供たちはいつの間にか成人して,振り返ってみれば27年が過ぎていた。これからもそれくらいの道のりはあると思うので,ようやく折り返し点付近か?健康と平凡・平穏の有り難さを味わった。

2012-05-19

休日メカニック

我が家の2号車ジムニー,ミレニアムの2000年から乗っていて相当にガタがきている。もう18万キロ走っているから無理もない。1年半前にダイレクトイグニッションコイルと点火プラグを新替えしたが,エンジンを始動するとまた振動が出るようになった。

 3シリンダのうち1シリンダ点火していないような気がしたので点検してみた。日曜大工ならぬ,日曜メカニック。いや,今日は土曜日だから休日メカニックかな?

 空気冷却器がじゃましてダイレクトイグニッションコイルの頭部を覆うカバーをはずしにくかったが,何とか取れた。



 最近の電子制御エンジンの電気系統は,イグニッションコイル→ディストリビュータ→ハイテンションコードというルートではないんですね。シリンダごとにダイレクトイグニッションコイルがあって,それが直接点火プラグの頭に取り付けてある。写真はダイレクトイグニッションコイルをはずしたところ。ここに潤滑油が少しついているのが気になる。

 点火プラグを抜くと
 1番シリンダ・・・汚れています。
 2番シリンダ・・・カーボンがびっちり固着しています。これでは絶縁不良でスパークが飛ばないわけだ。
 3番シリンダ・・・3本の中ではマシなほうだったけど,これも汚れています。白いポツポツもあるし。


1番シリンダ



2番シリンダ



3番シリンダ



 本車はこの3年くらい潤滑油の消費がとても激しく,1000キロごとに500ミリリットル補給している。

 というのも,はじめの頃は車のことがよくわからなくて潤滑油管理をおろそかにしていた結果,汚れた潤滑油で運転していたためにクランク室から燃焼室への「オイル上がり」と給排気弁ガイドから燃焼室への「オイル下がり」が顕著になったためだ。

 さらに,排気タービン過給機の軸受シールもやられているらしく,給気圧も不足している模様。

 自分自身が船で機関士をしていた頃,担当機器の運転時間管理や潤滑油管理等はしっかりやっていたのだが,自家用車となると全く無頓着だった。

 特に排気タービン過給機を装着した車の潤滑油管理は大切だと痛感したけれど,後の祭りだ。
 「油断大敵」とは,まさにエンジニアのための言葉と納得させられた。

 この先は排気タービン過給機つきの車を買うことはないとは思うけれど,潤滑油管理だけはおろそかにしないよう気をつけよう。

2012-01-09

成人式

娘が成人式に出席するので,会場近くまで一緒に行った。上の息子達の時には自分で行かせたが,娘の場合は慣れない振袖で一人送り出すのも心配で,親バカを発揮してしまった。考えてみれば成人なのだから「自分のことは自分で」が本来の送り出し方だったかもしれない。しかし,式の後に地元の同窓会も控えていて時間がキツキツだったから仕方ないですね。



 祖母も母も和服は普段から自分で着ていた。戦時中にどんな服を着ていたのか,女学校にはモンペや作業服で通っていたのか?戦後しばらくは物資の不足する時代が続いたから,和服を着る機会などあまりなかったのではないかと思うのだが,正月や私たちの入学式,卒業式,保護者会などには和服を着ていた。

 和服はいろいろな約束事がある上に,道具をそろえるのも高価なので,我が家はこの娘の振袖と,浴衣を和服に数えれば合計4着だけ。後はすべて洋服だから,着られないのも当然か。

 会場近くに早めに着いたので,クランベリータルトと紅茶で休憩。

 式が終わるまでコーヒーを飲んで待つ。

 私が二十歳の時には親元を離れて学生寮に住んでいた。当時はまだ「米穀通帳」というのがあったので(ほとんど形骸化していたが),住民票を学生寮に移していた。その関係で成人式の案内は学生寮に届いたはずだ。私は成人式に出るか出ないかで迷った記憶がほとんどなく,親もそれほど気にはしていなかったようだ。スーツを買ってやろうか?と言われたが,大学の制服があるからスーツは就職のときまでいらないと答えたのだと思う。

 娘の成人式は,父親の私にとっての通過儀礼のようにも感じた。

2012-01-01

朝夷奈切通し

元旦には毎年朝夷奈切通しを歩いて鎌倉まで初詣に行くことにしている。今年も昼過ぎに家を出て1時間半をかけて歩いた。環状4号,横浜横須賀道路朝比奈インター近くの入り口から入る。


道中の熊野神社は無人の社で,金沢八景の瀬戸神社の管轄になっている。我が家は神道なので,一番近くにあるこの熊野神社が我が家の鎮守の神様だ。

 切通しの道は険しく,ぬかるんでいて足を取られるところもある。毎年2時間近くをかけて荏柄天神社まで歩いている。


 熊野神社に初詣したので,鎌倉では混雑を避けて街並みを散歩し,お茶を飲んでバスで帰宅した。

2011-05-22

結婚記念日を祝う

 結婚記念日には10日ほど早かったが,妻と二人で26周年を逗子マリーナで祝った。
 過ぎ去ってみれば26年なのだが,年月の経過はつい日常に埋もれてしまう。今日は逗子マリーナの落合シェフのランチを奮発した。




2010-12-08

ジムニー修理完了

 先週のことだけれど,12月4日にジムニーの修理が完了した。
 異常な振動が出て出力が上がらなかった原因は,点火プラグ不良による不着火だった。はじめに自分で推測した原因とほぼ一致していたが,今回の故障でガソリンエンジンに対する自分の知識がかなり古風であることがわかって少々恥ずかしい思いをしている。
 ガソリンエンジンの点火系統は,これまでの自分の知識では,イグニッショントランス → ディストリビュータ → 各シリンダの点火プラグ となっていて,ディストリビュータはエンジンの回転を利用した機械的な装置というものだった。
 しかし,今では軽自動車でもそのような装置ではなくて,各シリンダごとにイグニッショントランスを持ち,そのトランスに点火プラグを直接取り付けてある。そのため,イグニッショントランスから点火プラグまでのコードもない。
 内燃機関の原理的なことは大体わかっていたつもりなのだが,特に自動車は各社が軽量・高出力・低燃費・低環境負荷の技術開発競争になっているので,古典的な知識では追いつかない。知っているつもりで毎日車を運転していたけれど,知らない事だらけだった。うわべだけの知識しか持っていなかったことを,思い知らされた。

2010-11-30

旧陸軍省と海軍省最後の日

 昭和20年11月30日をもって旧陸軍省と海軍省はなくなり,翌12月1日よりそれぞれ第一復員省と第二復員省に改組された。
 父は私よりも大きな体躯で柔道も強かったが,19歳のときに肋膜炎を患った影響で徴兵検査は「丙種合格」だった(「丙種でも合格と言っていた」と父は書き残している)。そのため徴兵されず民間会社で技術職に就いていたところ,海軍の施設部に軍属として徴用され,そのあと結局は武官転換して軍籍に入っていた。

 父の日記から。
 『昭和20年11月30日。佐世保海軍施設部退任、予備役編入。佐鎮。8月16日以降復員業務に従事、○○部長大佐以下の僅かな人数になる。最盛期には数千人が日毎に復員あるいは職場放棄して行ったが米軍進駐後は施設引渡しを行ない帝国海軍が12月1日から第二復員局に改組され復員。11月30日○○技師と嬉野温泉に一泊,帰国する。
 疲労こんぱいして12月に帰国。米軍から鎮守府の防空指揮所地下ごうの説明を求められ佐世保往復する。此の時施設部残党は福岡県筑紫郡二日市町812、運輸省門司地方建設部に改組されて居り打ち合わせに立ち寄る。』
 『当時カイセンにて母のヌカ油の治療を毎日行ひ、父兄と木炭製造などしていたが』昭和21年3月、戦前に勤務していた会社に復職した。
 (郷里に帰省することを父はしばしば「帰国」と表現する。)

 戦争を体験し、きょうだいを亡くし、戦時中から戦後の動乱期を通じて食料や衣服など毎日の生活に窮乏しながら日本の復興を支えた、大正から昭和1桁生まれの父・母の世代に対して感謝し、敬意を払うべきだと強く思う。

2010-11-27

減筒運転

 10年間乗ってきたジムニーのエンジンが不調になった。アイドリングで振動が出る,上り坂で出力が上がらない,燃料消費が急増するなどの症状から,3シリンダのうち1シリンダが着火していないのではないかと考えた。走行距離は16万キロ,この間にクラッチ板や発電機のベアリングを換えるなど,何箇所かの部品交換をしてきたが,このような状態は初めてだった。




 修理工場へ持ち込んだら,予想通り1シリンダ不着火とのこと。問題はその原因だ。
1. 点火プラグの電極に燃焼生成物(炭素)が付着して火花が飛ばない。
2. 点火プラグのコード不良。
3. ディストリビュータの当該シリンダ部分だけ接触不良。
4. ピストンリング損耗。
5. 吸排気弁損耗。
6. 吸排気弁ガイド損耗。
 といったところか?電気系統ならば費用もそれほどかからないだろうが,シリンダ内の不具合ならば大きな工事になるので費用も嵩む。

 海技従事者国家試験に「ディーゼル主機関を減筒運転する方法と注意事項」「蒸気タービン主機を高圧タービンのみ,あるいは低圧タービンのみで運転する方法と注意事項」などが出題されるので勉強したことはあるし,取扱説明書にもその方法が記載されていたが,機関士として乗船していたときには幸いにもそのような状況になったことは一度もなかった。

 陸上で,しかも自分の握り拳も入らないようなエンジンを減筒運転することになろうとは思ってもみなかった。船に乗っていたときは職務なのでエンジンの取り扱いには細心の注意を払ってきたが,毎日の足として使っている車のエンジンには無頓着だった。自分のことをエンジニアと思っていたが,恥じ入るばかりだ。

2010-09-21

恩師の訃報

 大学時代の恩師である岸井守一先生の訃報が同窓会のメールで届いた。9月20日に逝去されたそうだ。体育の先生だったので授業は1年生のときにしか受けていないが、神戸商船大学創立以来の名物教授だった。

 30数年前の入学試験は神戸の本校舎の他に東京と福岡で行われた。私は東京教育大学(現筑波大学大塚校舎)で受験したのだが、そのときの試験監督が岸井先生だった。2日間にわたって行われた試験が終わったとき、我々受験生に先生が「それでは、みんな、深江で会おう!」と仰ったのが印象的だった。

 大学1年の時の体育実技は通年1単位、夏季集中1単位で、その夏季集中授業は全学部の1年生が、といっても商船学部しかないので3学科200人だったが、淡路島に1週間合宿して水泳の授業を受けた。早朝の体操、清掃、午前と午後の水泳実習、夕方の清掃を毎日行い、最終日に2時間余りの遠泳を行う。授業というよりは訓練といった様相で、実際、教官も我々学生も「体育実技」というより「水泳訓練」と呼称しいた。実技指導は専任の体育教官の他に、近隣の大学から非常勤講師の応援があって、水府流などの古式泳法も教わった(「水夫流」と思っていた学生は多かったのではないか?)。生活指導は2年生以上の上級生が行い、食事当番や清掃、就寝前の巡検などはすべて上級生の指導に従った。その水泳訓練の総指揮が岸井先生だった。とにかく安全ということに気を配って、水泳訓練前には学生の心電図をとり、遠泳では地元の伝馬船を数隻雇って編隊の警戒に当たらせ、創立以来の毎年の水泳訓練を無事故で継続された。

 先生はまた、私が所属していた柔道部の顧問で、近畿地区国立大学柔道大会では専門委員の席からいつも我々の試合を気にしていらした。3年生のときだったと思うが、その近国体に出場したとき、得意でない寝技戦になった。私は上から押さえようとし、相手は下から私の首を締めた。私は立って組みなおすよりもそのまま押さえ込んだほうが早いと判断して、締められるのもかまわずに押さえ込もうとした。しかし、相手の締め技のほうが先に決まり、私は「落ちて」しまった。

 その様子を役員席からご覧になっていた先生は、試合後に私のところに近づいて来られ、目にたくさん涙を溜めて「商船大生は『参った』をせんからなぁ!」と声をかけて下さった。誰が見ても、私自身でさえ、あの場面では立って組みなおすのが順当で、全くの私の失敗だったのだが、先生の目には私が「商船大生らしく」、苦しいのを「負けじ魂」で我慢したと写っていたようだ。負けた選手を叱る指導者もいるが、自分の落ち度で負けたのにそのように言ってもらえて面映くはあったけれど、なぜ負けたのか、叱られるよりも深く反省し、その原因が強く胸に刻まれたものだ。

 先生は我々商船大生を我が子のように愛していらした。いつも私たち学生の落ち度には両目を閉じて、ほんの少し頑張ったことに対しては実際以上に褒め称えてくださった。先生に授かった薫陶は一生の宝、惜別の念をお伝えできないことが悔やまれる。

2010-08-15

昭和萬葉集

 毎年お盆の頃には,昭和54年に講談社から出版された『昭和萬葉集』の巻七を読むことにしている。就職したばかりの頃の盆に帰省したとき,両親とNHKの番組を見ていてこの本の中の一首を知った。その一首が忘れられず,休暇が終わってから買い求めて母に贈った本だ。今は母の形見として手元に置いている。この巻七には,昭和20年から22年,終戦前後から復興の頃の歌が集められている。
 
 『帰らざる十七人ほどの兵ありて静かなる村の一つの嘆き』(菅原俊治,「創作」)

 第二次世界大戦も終戦後の動乱期も私が生まれる前のことだが,自分の意志とはかかわりなしに戦争に巻き込まれ,歴史に名前を刻まれることもなく亡くなっていった300万人を超える命を想う。

2010-08-06

広島原爆の日

昭和40年の7月、夏休みになってすぐに、小学生だった私は父の転勤にともなって広島へ転校した。転校先の小学校も夏休みなので、まわりに友達もなく、宿題もなく、どのような毎日を過ごしていたのかあまり記憶がない。
ただ、8月6日朝にNHKで放送された平和記念式典の冒頭、原爆投下の8時15分にあわせて打ち鳴らされる、被災者への鎮魂の鐘の音と「あれから20年」というナレーションを今でも覚えている。
父に連れられて見てまわった平和記念公園と資料館、住友銀行広島支店入口の石段に焼き付けられた「死の人影」が、そのナレーションとともに思い出される。
昭和20年8月、父は佐世保海軍施設部に勤務していたので、もし9日に長崎へ出張などしていれば、長崎原爆の犠牲になっていたにちがいない。
ヒロシマから65年、私の記憶に「8月6日」が刻まれてから45年が過ぎた。

2010-06-28

佐世保が空襲を受けた日

 昭和20年6月28日夕刻から29日未明にかけて、佐世保はアメリカ軍の空襲を受けた。父はそのころ海軍施設部勤務で佐世保在住、結婚したばかりだった。
 そのときのことを父は後年になって100年日記に次のように記している。
**************
約二ヶ月新所帯の後、6月29日焼夷弾攻撃(モロトフのパンカゴ及び油脂)で借家全焼。防空ゴーの行李・トランクのみを残し全てを失ふ。
S-15年後半から20年6月までのほとんどの手紙、写真、アルバム、衣類、私の第一種軍装、軍刀、父にもらったウォールサムの懐中時計など深い思い出の物を失ったのは残念なことである。
空襲当夜は蚊帳を吊り寝込みを襲われガケ下の横穴防空壕は満員で墓場に一時避難、その後山の頂上付近の一軒家の縁側で一夜を明かす。下界に広がる全市は火の海だった。
焼け跡の火の残って居る佐世保からリュック、モンペの○子を連れて帰国の途へ。空襲を避けながら汽車の乗り継ぎで山陰線に入り途中駅で停車の時ハンゴウで飯焚き中発車の合図で吹き出した飯も其のままに乗り込み、水害で鉄橋流出箇所は徒歩で渡って乗り継ぎ、浜田で一泊。松江で野津泊まりの上帰国する。
○子を疎開に連れ帰り佐世保へ出発する時、時計を失った私は時計を一個貰いたいといって、祖父の古い懐中時計夜光文字盤のを持って出かけた早朝、父は自転車で追いかけて来てチソットの腕時計を渡してくれた。此の時計は48/10/14日本堂へ修理に出したが直らなかった。
************
 両親とも島根県出身だが、父は郷里へ帰ることをしばしば「帰国」と書いた。
 この空襲の時のことについて、数年前に母に聞いた話。
 佐世保の借家は坂の途中にあった。母は町内で一番若く、連絡係の役目だった。それで、役目を果たすために状況を報告しに行かなければならなかったが、父はそれを制して母の手をとり、山の上の方へ上の方へ逃げたそうだ。
 私が母に、逃げたのは玄関を出て右か左かと訊いたら、「左は坂の下の方。右に逃げた」と。
 母が役目通りに坂の下の方へ連絡しに行っていたら、両親とも助からなかっただろう。防空壕に空席があった場合にも。
 父が亡くなったときに、母からこの時計をもらい受け、時計修理専門の店に出したら修理できた。祖父と父の形見として今も毎朝ゼンマイを巻いている。

2010-04-01

新年度

 「1年が始まった」という感慨は1月と4月では異なるようだ。1月のときは暦のことや私的なことが基準だが,4月は仕事を基準として1年の「区切り」を実感する。
 ピアニストの穐好吉敏子さんは,数年前のNHKのインタビューで抱負を訊かれたときに「昨日よりはマシな演奏ができるようになりたい」というように答えていた。穐好吉敏子さんといえば世界的に不動の地位にあるピアニストだと思うのだが,インタビューに対してそのように答える人だからこそ,今の地位にあるのだろうと思う。
 今日は新年度が始った。昨日の続きが今日で,今日の続きが明日・・・という生活を何年も続けてきたが,今年度こそは,昨日よりはマシな人間として新しい1日を積み重ねて行きたい。

2010-03-06

叔父を想う日

 今日は父に一番歳の近い叔父の命日である。墓碑には「昭和20年3月6日ビルマ国レイクテイラ縣ライデン—タヂ間ニ於テ戦死」と刻まれている。(調べたところでは,レイクテイラはメークテイラ,タジはサジの誤りではないかと思うが,よくわからない。)
 叔父の訃報は,戦後1年過ぎてから,叔父の所属していた部隊の中隊長から祖父宛に詳細な手紙で届いたのだそうだ。その手紙によると,叔父は後方から補給のために夜間行軍し,夜明け頃前線に到着した。前線の上官は叔父たちを案じて,すぐに後方へ退くよう命令したそうだがそれが仇になった。日が昇ってからの行軍になったため,後方に辿り着く前に敵に発見されて攻撃を受け,行方不明となった。その後,前線部隊は後方に帰還し,叔父たちが行方不明になったことがわかった。
 私は子供の頃,毎年のように父の郷里へ帰省し,盆の準備を手伝った。たくさんの墓石ひとつひとつの前に竹の水差しを差込み,榊を供える。そして,父に「これはお祖父さん,これは曾お祖父さん,これは曾お祖母さん」と教えてもらった。他のよりも新しくそして大きな墓石が24歳で戦争に殉じた叔父の墓だった。遺骨も遺髪もない,墓石だけの墓である。
 子供の私には10年という時間の感覚がわからなかったので,戦争がずっと昔の歴史上のことのように感じられたし,見たこともない叔父なので特別な感慨はなかったように思う。しかし、私が生まれる10数年前は戦争中で,生まれてから今日までのほうがずっと長い時間が過ぎていることに思い至ると、第二次世界大戦が昔々のことではなく、自分の出生にまで関わる出来事だったのだと気付く。
 昭和40年ごろ,父は日記に次のように書いている。「大きな宮の境内に全国から集まった入営兵を送る人たちに交じって元気で出掛けた○○の顔,笑って手を振って居た大きな体が今も目に見えるように思ひだされる。」
 戦死した叔父を直接に知る親戚はすでに少なくなってしまったが,祖父母や父の悲嘆が私の胸に刻まれているように思う。叔父に哀悼の意を伝えるすべはないものか。「戦後」はまだ終わっていない。

2010-01-01

2010年元旦

 元旦は我が家恒例となった朝夷奈切通しを歩いて鎌倉の荏柄天神社へ初詣。今日は学業成就をお願いする本人が予備校へ行ったので,残りの家族で代わりに参詣して御札をもらった。


朝夷奈切通し,環状4号線側の入り口



800年近く前に鎌倉幕府が作った道の雰囲気。



大きな岩盤に刻んだ仏像



鎌倉十二所側の入り口,「昭和16年3月」と記されている。

 環状4号線側の入り口から1時間半くらいで十二所に出られる。途中にこの地域の氏神である熊野神社があるが,無人である。金沢八景の瀬戸神社が管理しているらしい。
 毎年この経路で初詣している。800年の歴史が昔々のことで終わりなのではなく,現在の私たちに連綿とつながっていることなのだと感ずる。

 今年の抱負「昨日よりはマシな人間になろう」。

2009-12-31

2009年大晦日

 今年も大晦日を迎えた。この1年,なんとか糊口をしのげたことに感謝している。子供の成長とともに,親に育てられていた頃にはわからなかったことに気付く。この先もずっとそうなのだろうと思う。
 月並みだけれど,健康で平穏な毎日の積み重ねを大切にしたい。

きれいな月だった。

2009-05-03

草むしり

 庭が草ぼうぼうでうっとうしくなってきたので、草むしりをした。


 気候はカラッとしているし、蚊も毛虫もいないのでとてもはかどった。すっかりきれいになった庭を眺めると、バラが咲いているのに気付く。ふだん何も手入れしていないのだが、たった一輪でも咲いていると嬉しい。こまめに剪定したり、草を抜いたりしてやればもっと咲くのだろうか?

2009-01-13

小学校の同級生

 K君は小学校のときの同級生である。互いに親の転勤にともなって広島で数年を過ごし、1969年に一緒に卒業した。私はその後ふたたび親の転勤で横浜に転居し、彼とはいつの間にか音信も途絶えた。
 その後、1984年春に、私の大学の同級生が「オマエ、小学校の時広島におったて言うとったなぁ。そんならKて知らんか?」と聞いてきた。K君とその同級生は職場の同僚なのだという。それで、15年ぶりに再会したのだが、迂闊にもK君の電話番号も住所も聞かずじまいだった。大学の同級生を介していつでも会えるような気がしていたからだ。
 それから25年すぎた昨春、息子が大学でラグビー部に入部した。同じ部の4年生にKという選手がいて、小学校のときの同級生のK君に表情がよく似ている。あのK君の子供に違いないと思いつつも、息子にとって見れば雲の上の4年生なので、父親の郷愁のために「お父さんオヤジの同級生ですか?」などと聞かせるわけにもいかず、親同士が会う機会もあまりないので年を越してしまった。
 いろいろな人伝に訊いてもらったところ,やはり予感は的中していて,今日ようやく連絡が取れた。今までに,いったい何人の友達と「それっきり」になってしまったことだろう。小学校の同級生と音信が取れるようになったのは,わずかに彼一人である。不思議な縁が二度も続くと,これは友達を大切にしなければならないという天啓だと思えてくる

2009-01-10

毎日の記録

 小学校の頃から幾度か日記をつけたことはあるが,どれも挫折してそれらの日記帳は残ってすらいない。しかし,1996年からつけているこの10年日記は二冊目も中盤にさしかかってきた。写真のは家庭でつけている日記だが,これとは別に職場にも1冊10年日記を置いていて,そちらも欠かさずに書いている。


 次々と迫ってくる新しい時間,そして「今」という時間が過去となってゆくこの流れはとめようもない。そして日々の「生活」は時間の流れに乗って過去に埋没してゆく。
 「きのうの夕食は何だったっけ?」
 「先週の日曜日はどこへ行ったんだっけ?」
 「~~と映画を見に行ったのはいつだった?」
 ・・・・・
 ・・・・・
 父は13歳の頃から日記を書いていた。忙しいときには日記も留守になっていたようだが,それでも仕事の予定などを記録するための手帳はずっと保管してあり,日記をつけなかった時期を補うことができたようだ。父はそれらの日記や手帳,手紙集をもとに,「100年日記」というものを遺した。それは父の祖父(私の曽祖父)くらいの年代から100年間の記録で,教科書に記述されているような歴史と,曽祖父から私に連なる我が家の歴史が対照できるようになっている。

 小学生の頃,その父から日記帳をもらったことがあったが,長続きしなかった。そのころは日記というと日々の感想を書かなければならないと思っていたからなのだが,とても面倒だったような気がする。

 今は日記をつけるのが習慣になっている。書くことは,どこかへ行ったこと,夕食に何を食べたか,だれと電話したか,来客,覚えておきたいエピソード・・・などの事実だけ。思ったことや感想などは滅多に書かない。職場の日記には,どのクラスの授業をやったか,会議,出張,来客,特に大事な電話・・・など。初めての年は義務のように記録していたが,10年日記なので,二年目からは前年の同月同日に何をやったかが一目でわかるから,記録することが楽しみになった。

 これに加えて昨年から不定期ながらブログを始めた。さらに,撮影したデジタル写真もコンピュータに保存するだけでなく,flickr や google などのスペースにアップしている。こうして,日々の生活をいろいろな手段で記録し,「私」が過去に埋没してしまわないようにしている。