昭和20年11月30日をもって旧陸軍省と海軍省はなくなり,翌12月1日よりそれぞれ第一復員省と第二復員省に改組された。
父は私よりも大きな体躯で柔道も強かったが,19歳のときに肋膜炎を患った影響で徴兵検査は「丙種合格」だった(「丙種でも合格と言っていた」と父は書き残している)。そのため徴兵されず民間会社で技術職に就いていたところ,海軍の施設部に軍属として徴用され,そのあと結局は武官転換して軍籍に入っていた。
父の日記から。
『昭和20年11月30日。佐世保海軍施設部退任、予備役編入。佐鎮。8月16日以降復員業務に従事、○○部長大佐以下の僅かな人数になる。最盛期には数千人が日毎に復員あるいは職場放棄して行ったが米軍進駐後は施設引渡しを行ない帝国海軍が12月1日から第二復員局に改組され復員。11月30日○○技師と嬉野温泉に一泊,帰国する。
疲労こんぱいして12月に帰国。米軍から鎮守府の防空指揮所地下ごうの説明を求められ佐世保往復する。此の時施設部残党は福岡県筑紫郡二日市町812、運輸省門司地方建設部に改組されて居り打ち合わせに立ち寄る。』
『当時カイセンにて母のヌカ油の治療を毎日行ひ、父兄と木炭製造などしていたが』昭和21年3月、戦前に勤務していた会社に復職した。
(郷里に帰省することを父はしばしば「帰国」と表現する。)
戦争を体験し、きょうだいを亡くし、戦時中から戦後の動乱期を通じて食料や衣服など毎日の生活に窮乏しながら日本の復興を支えた、大正から昭和1桁生まれの父・母の世代に対して感謝し、敬意を払うべきだと強く思う。
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