昭和20年6月28日夕刻から29日未明にかけて、佐世保はアメリカ軍の空襲を受けた。父はそのころ海軍施設部勤務で佐世保在住、結婚したばかりだった。
そのときのことを父は後年になって100年日記に次のように記している。
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約二ヶ月新所帯の後、6月29日焼夷弾攻撃(モロトフのパンカゴ及び油脂)で借家全焼。防空ゴーの行李・トランクのみを残し全てを失ふ。
S-15年後半から20年6月までのほとんどの手紙、写真、アルバム、衣類、私の第一種軍装、軍刀、父にもらったウォールサムの懐中時計など深い思い出の物を失ったのは残念なことである。
空襲当夜は蚊帳を吊り寝込みを襲われガケ下の横穴防空壕は満員で墓場に一時避難、その後山の頂上付近の一軒家の縁側で一夜を明かす。下界に広がる全市は火の海だった。
焼け跡の火の残って居る佐世保からリュック、モンペの○子を連れて帰国の途へ。空襲を避けながら汽車の乗り継ぎで山陰線に入り途中駅で停車の時ハンゴウで飯焚き中発車の合図で吹き出した飯も其のままに乗り込み、水害で鉄橋流出箇所は徒歩で渡って乗り継ぎ、浜田で一泊。松江で野津泊まりの上帰国する。
○子を疎開に連れ帰り佐世保へ出発する時、時計を失った私は時計を一個貰いたいといって、祖父の古い懐中時計夜光文字盤のを持って出かけた早朝、父は自転車で追いかけて来てチソットの腕時計を渡してくれた。此の時計は48/10/14日本堂へ修理に出したが直らなかった。
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両親とも島根県出身だが、父は郷里へ帰ることをしばしば「帰国」と書いた。
この空襲の時のことについて、数年前に母に聞いた話。
佐世保の借家は坂の途中にあった。母は町内で一番若く、連絡係の役目だった。それで、役目を果たすために状況を報告しに行かなければならなかったが、父はそれを制して母の手をとり、山の上の方へ上の方へ逃げたそうだ。
私が母に、逃げたのは玄関を出て右か左かと訊いたら、「左は坂の下の方。右に逃げた」と。
母が役目通りに坂の下の方へ連絡しに行っていたら、両親とも助からなかっただろう。防空壕に空席があった場合にも。
父が亡くなったときに、母からこの時計をもらい受け、時計修理専門の店に出したら修理できた。祖父と父の形見として今も毎朝ゼンマイを巻いている。
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