2010-03-06

叔父を想う日

 今日は父に一番歳の近い叔父の命日である。墓碑には「昭和20年3月6日ビルマ国レイクテイラ縣ライデン—タヂ間ニ於テ戦死」と刻まれている。(調べたところでは,レイクテイラはメークテイラ,タジはサジの誤りではないかと思うが,よくわからない。)
 叔父の訃報は,戦後1年過ぎてから,叔父の所属していた部隊の中隊長から祖父宛に詳細な手紙で届いたのだそうだ。その手紙によると,叔父は後方から補給のために夜間行軍し,夜明け頃前線に到着した。前線の上官は叔父たちを案じて,すぐに後方へ退くよう命令したそうだがそれが仇になった。日が昇ってからの行軍になったため,後方に辿り着く前に敵に発見されて攻撃を受け,行方不明となった。その後,前線部隊は後方に帰還し,叔父たちが行方不明になったことがわかった。
 私は子供の頃,毎年のように父の郷里へ帰省し,盆の準備を手伝った。たくさんの墓石ひとつひとつの前に竹の水差しを差込み,榊を供える。そして,父に「これはお祖父さん,これは曾お祖父さん,これは曾お祖母さん」と教えてもらった。他のよりも新しくそして大きな墓石が24歳で戦争に殉じた叔父の墓だった。遺骨も遺髪もない,墓石だけの墓である。
 子供の私には10年という時間の感覚がわからなかったので,戦争がずっと昔の歴史上のことのように感じられたし,見たこともない叔父なので特別な感慨はなかったように思う。しかし、私が生まれる10数年前は戦争中で,生まれてから今日までのほうがずっと長い時間が過ぎていることに思い至ると、第二次世界大戦が昔々のことではなく、自分の出生にまで関わる出来事だったのだと気付く。
 昭和40年ごろ,父は日記に次のように書いている。「大きな宮の境内に全国から集まった入営兵を送る人たちに交じって元気で出掛けた○○の顔,笑って手を振って居た大きな体が今も目に見えるように思ひだされる。」
 戦死した叔父を直接に知る親戚はすでに少なくなってしまったが,祖父母や父の悲嘆が私の胸に刻まれているように思う。叔父に哀悼の意を伝えるすべはないものか。「戦後」はまだ終わっていない。

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