会場 :横浜開港資料館講堂
懇親会:18時~21時 Amazon Club(日本郵船ビルと神奈川県警察本部の間のビルの地下)
テーマ「学習環境のデザイン」
講師 有元典文先生(横浜国立大学教育人間科学部 教授)
コメンテーター 吉岡有文先生(立教大学文学部教育学科 特任准教授)
エデュネット:本日の勉強会の主催者である、ミュージアム・エデュケーターズ ネットとは、『博物館・美術館などで利用者に直に接する職種にいる方や博物館の学びに関心のある方の情報交換の場』で(開催のお知らせより引用)、180人を超える人が登録しており、「エデュネット」と略称しているらしい。
エデュネットに参加している人の一部に納得研究会のメンバーが数名いらっしゃるので、そのつながりから私も本日の勉強会に参加させていただいた。
事前の宿題として、「自分なりの学習・学びの定義」を頭の中で整理してみてほしということだった。
改めて「学ぶ」とはどういうことか、人はなんのために学ぶのかということを考えると、「教えるとはどういうことか」という問いもセットになって浮かび上がってくる。
この問いに対しては、今のところ次のようなことを考えているが、なかなかうまくまとまらない。
何のために学ぶのか:人間としての命を次の世代に継承するため。命の継承だけなら植物や動物もするけれど、人は命の継承だけでは生きていけない。人が人として生きて行くためには学ぶ必要があり、人が学ぶためには教えることが必要だ。
有元先生の「学習環境のデザイン」研修講座を毎夏受講していて、状況論的学習論に強い興味を持っているので、今日の勉強会は楽しみだった。納得研究会のメンバーも幾人か参加していた。
本日の勉強会を復習するための参考図書5冊(新しい順に):
- 茂呂雄二他『社会と文化の心理学 ー ヴィゴツキーに学ぶ』世界思想社,2011年
- 有元典文・岡部大介『デザインド・リアリティ』北樹出版,2008年
- 海保博之他『文化心理学』朝倉書店,2008年
- 加藤浩・有元典文他『認知的道具のデザイン』金子書房,2001年
- Jean Lave,Etienne Wenger(佐伯胖訳)『状況に埋め込まれた学習――正統的周辺参加』産業図書, 1993
また、神奈川県教員対象に行われた過去4回の有元先生による学習環境デザイン研修講座の受講記録は、本日のミュージアムエデュケーターを対象とした講義と目的は同じでもアプローチが若干違っていたように思う。
教員対象の方は、はじめから「授業」を行うことが前提になっていて、「学ぶ動機」から学習環境デザインを考える筋立てになっていた。
今回は、そもそも学ぶとはどういうことか、知識はどこにあるかということから学習環境デザインを考える筋立てになっていた。
ほんの少し違う入口から同じ主題を考えるのは、立体的に見えて興味深い。
有元先生の講義概要
学習環境のデザインー状況論的学習論からのアプローチ
教員養成課程で学校の先生になろうとする学生の教育を担当しているが、学校だけでなくいろいろな学習の場に出向いて、学習がどのように行われているかを調べて歩いている。
【Work1】
「ミュージアムで学習する」とはどういうことか、「だれが」「いつ」「どこで」「だれに」「なにを」「どうした」の形式で、指定されたtwitterアドレスに投稿する。投稿された各人各様の考えはtwitterのつぶやき一覧に表示され、参加者全員で共有する。
twitterも使いよう。このようにひとつのテーマについていろいろな人の考え方や「定義」を共有すると、自分が漠然と考えていることをまた別の視点から考えなおしてみることができる。便利なテクノロジーは活用したほうが良い。
状況論的学習論の主な3つの観点
- 社会的分散認知とアンサンブル
- 正統的周辺参加と実践のコミュニティ
- 学習環境のデザイン
【背景】ヴィゴツキーの考え方
「他人を教育することはできない」・・・園芸家の例え(植物を成長させようとして引っ張っても大きくなるわけではない。育つための環境を整えるだけ。教育も同じ。)
【社会的分散認知】
歴史的、文化的に人は共同作業をしている。
知識は個人の頭の中だけにあるのではなく、いろいろなところに分散している。そして、それら分散している知識を個人が再構成して使っている。
日本では九九で掛け算を覚えるが、この九九という仕組みは社会的な知識だ。
(何回か前の学習環境デザイン研修講座で、「電球ひとつでは明かりは灯らず、発電所・変電所・送電線などのインフラとセットで初めて電球が役に立つ」という例えがあった。)
人間は生まれてきたときにはタブラ・ラサである。
人間は後天的に、人になってゆく。
白紙に色を塗るように。
教育と学習が彼らを人間にする。
【運命の社会文化性】
学習で知識を身につける意義:種としての学習で人間は「運命」を乗り越えてきた。
ウガイすると風邪発症が40パーセント低下する。
→うがいは個人で考えついたことではなく、人間という種としての知恵。・・・知識は個人の頭の中だけにあるのではない。
自分たちは変われる。これが人間らしさ。みんなで学習するというところが人間らしさ。
人間の能力とは集合的なもの。
→ヒト+モノ+コト:これが人間。
【Work2】
乱数を一瞬見せて記憶するワーク
5桁・・・ほとんど全員が記憶できる。
6桁・・・ほとんど全員が記憶できる。
7桁・・・記憶できる人数がやや少なくなる。
8桁・・・記憶できる人数がさらに少なくなる。
9桁・・・約40人の参加者のうち記憶できる人数は10人以下になる。
10桁・・・さらに減る。
11桁・・・ここまで来ると神がかり的?2名くらい記憶していた。
人間の能力の脆弱さ。人間は7±2桁しか覚えられない。
しかも、30秒程度しか覚えていられない。
→短期記憶
長期記憶に転送するためにはリハーサルが必要。
→マジカルナンバー7
人はひとりぼっちではなく、ヒト・モノ・コトのアンサンブルとして認知する
本をどこまで読んだか記憶するためのドッグイヤー(dog ear):本のページの隅を折る知恵は誰が始めたことか?読んだ位置の記憶→個人の外部に記憶させる工夫。
これらの知恵によって、人は頭の中に必要以上にたくさんの記憶をする必要がない。
【コーヒーショップの記憶】
某コーヒーショップでは何十数種類に及ぶコーヒーのバリエーションがあるが、そのオーダーを店員はほぼ間違いなく伝えて客にコーヒーを提供することができる。
それは、コーヒーの注文をカップにマークすることで実現している。
→外部記憶の工夫
同じ事を実験室で記憶だけを用いて再現しようとすると、熟練した店員でも覚え切れない。
大勢で自己紹介すると、真ん中あたりのの人は覚えてもらえない。
ヒトの記憶はヒト・モノ・コトのアンサンブルである。
マルクス:人間の本質は一人一人の個人に内在する抽象物ではない。現実には人間の本質は人間関係の諸関係の総体(アンサンブル)である。
人間の存在は文化とセット:パーソンプラス
人間とは孤立したイキモノではない。
一人の人間は歴史と文化の集合体であって単なる個人ではない。
しかし、社会文化と切り離されると自律できない。
懐中電灯を持っていたって電池がなければ夜道を歩けない。
【道具にデザインされた現実】
携帯がなければ待ち合わせができない。連絡、記録、怪我、掛け算・・・・・
「筆記具」、「薬」「九九という道具」等々、何らかの道具によって我々の現実は成り立っている。
人間は個人を超えた存在、個人の能力や可能性を超えて存在している。
私たちは皆でデザインした世界を生きている。→デザインドリアリティ
私たちは道具に媒介され、世界に新たな意味を与えながら生きている。
【文化は遺伝しない】
個体が獲得したことは遺伝しない。知識・技術は遺伝しない。
カレンダーや自転車が目の前にあっても、使い方、なんに使えるかはわからない。
人工物は継承できるが、どのように使うかということは教育しないと伝わらない。
【正統的周辺参加】
教え込み的教授行為がなくとも、参加という学習がある。正統的周辺参加(LPP:Legitimate Peripheral Participation)
子供がジャグリングやバッティングの練習を無心に行う動画(kidspracticing:youtube)
シルクドソレイユの動画
誰かにあこがれて、誰かになろうとしている:正統的周辺参加
既存の実践コミュニティへの参加としての学習。
当たり前すぎる・なぜ正当かというと、憧れの対象になろうとしているから。
周辺:はじめからそのとおりはできないので、周辺のできることからやる。
知識・技能は参加の副産物である。
知識・技能は参加を保障しない・・・学校。知識や技能を教え込めばやがて使うことがあるだろう。しかし、知識・技術を教えたからといって、必ずしもそれらを使うとは限らない。いつ活用するかもわからない知識・技術を空欄補充的に覚えさせられている。
これに対して、実践への参加はおのずと知識・技能を獲得する。
実例:ヨットスクールの学習は、実践のアリーナでの学習である。海、ヨット、集まる大人たちはみな本物である。ここでは事前の空欄補充的な用語説明はなく、海へ出て、ヨットを操るために必要な知識・技能を、必要なときに必要なだけ指導する。トレイニーはひと通りのことができるようになって港に帰ってくる。
しかし、教室の黒板の向こうには本物はない。
実践のコミュニティへの参加:学校で学ぶのと比較できないくらいの熱心さで学ぶ。
学校の学習との違い:驚くほど多くの人がだいたい習得する、ほとんどそれらしい苦労を伴わないこと、苦労が合っても動機があると乗り越えられる。
暴走族、走り屋の動画・・・彼らはそれらしく見えるようなオートバイの乗り方を身につけてゆく。
誰かのようになりたいという憧れは学習への強い動機となる。
実践への参加によって知識・技能が身について行く。(Designed Reality)
【学習環境デザインの例】
船の位置決定(自船の位置を天測や物標の方位測定で決めること):実船では熟練者と初学者が6人くらいのチームになって実践する。海図も熟達者のやり方も皆が見えるところにある。
→(分散→教育+エラー回避)オープンツール
リベリアの仕立て屋:はじめはボタン付けなどの簡単なことから。いきなり裁断はやらせてもらえない。ここでも、熟達者の仕事のやり方は見えていて、初心者は自分がどの工程をやっているのか、自分の仕事の結果が全体のどの位置かがわかる。
精肉店(孤立):あるスーパーマーケットの精肉パック詰め作業。個々の作業者はお互いの作業が見えないような場所で作業している。ここでは学習になっていない。それぞれの作業を見えなくしているので人が何をやっているか見えない。
小学校のミシン学習の動画:空欄補充問題になっている。ミシンを実践の道具としてではなく、名称を記憶するための教材として使っている。
「漢字で書くんやで」
→ミシンは上手でも、名称を漢字でかけなければならない。ミシンの価値が分かって、ミシンで何か縫いたくなる前に空欄補充をさせている。
【主体性のあらわれ:どんな個人を開花させたいか】
意図:教えたことが意図どおりに学ばれるとは限らない。
意義:意義あることが意義あると受け止められるとは限らない。例:カリキュラム
知覚:同じものを見て同じものを感じるとは限らない。
動機づけ(motivation)
行動を一定の方向に向けて生起させ、持続させる過程や機能の全般(有斐閣心理学辞典)
内発的動機づけ
賞や罰でなく、学習の場をデザインすることで動機を内発するように仕向ける
主体性のありか
ヒト・モノ・コトのアンサンブルとして
【Work3】
理想の館、展示、展覧会、アクティビティを考える。5-6人のグループになって、理想の博物館・美術館を構想する
グループで相談、ヒトモノ・コト、人的資源、人工物、場のルールや仕組みを工夫することで、来館者の学習をデザインする。
[私のグループの議論]
美術館のガイドをしている。対話型鑑賞、誘導はしない。
リピーターを増やす、美術館・博物館に来る動機をどのように導くか。
知的欲求にどう答えるか。
美術を見て、言葉で伝えることも鑑賞の方法。クリエイティビティにつながる。
言語活動:二次創作ともいえる。
美術館へ行くことは好きだが、絵をどう見たらよいかわからない。ただの平面。しかし、ちょっとしたきっかけで視点が得られると楽しく鑑賞することができる。
語り合う、それは長じた人とは限らない。全くの素人同士でも観る視点は得られる。
人間がインプレッションを得る場ではある。
多角的な視点を得られる:対話型鑑賞。
対話型に工夫を加えるとしたら。
動機が生まれる場。美術館に行くこと自体が動機ではあるけれど、別の目的であっても行くことによって新たな動機が生まれることもある。
[発表1]
家族連れが来て美術館に来て自由に語れる場を作る。
お父さんがキーパーソン。エデュケーターが話しかける。
裸婦について父は子供の前で黙り始めることが多いので。
[発表2]
フィールドそのまま博物館
自然公園
親が子供に連れられてきた。
自然公園には展示板があって、影に解説員がいる。
子供が勝手にフィールドを歩く。
子供が自由に歩いた結果いろいろを見つける。
掲示板にポストイットなどを貼れる。
見つけたものが次の人のリソースになる。
結果、エデュケーターもまた子供の探索から学ぶ。
[発表3]
ミュージアムは身の回りのものを切り取る場になっている。
対象を本来ある場所で鑑賞できるようにする。
街や森の支援付散歩。
[発表4]
小学校の歴史、展示室なしで食の体験、脱脂粉乳も飲む。これらの体験を通して学ぶ。
[発表5]
対話型鑑賞、作品をもとにした対話。
それを二次創作、クリエイティブな活動のリソースとする。
対話が作品となる。
ただ鑑賞するのではなく、創造の場となるデザイン。
[発表6]
野毛山動物園、明日は世界最高齢のらくだの誕生日。
高齢の動物から生きていることの意味を知る。
らくだも生きていく意志があるので草を食む。
家族同士では話ができるが、他の家族とは共有していない。
他の家族との語らいができる、見たことからの発想を語り合える。
みなの発見を共有するデザイン。
[発表7]
メガネ博物館を構想する。
メガネのあることによる恩恵、メガネの種類などの展示。
世界が新しく見える。
既成概念を取り払う。
そのようなコンセプトを展開したい。
ワークショップ
自分の顔にどんなメガネをかけると新たな自分に出会えるか。
苦手な人にどんなメガネをかけさせれば相手を新たに感じられるか。
ペアメガネ:ほほを寄せてかける。
表現としての学び:吉岡有文先生
学びとはコミュニケーションである。
クロード・シャノン 通信系モデルとしてのコミュニケーション。
情報をAからBへ伝送することをコミュニケーションという。
エドワード・リード
エコロジカルな情報のピックアップとしてのコミュニケーション。
コミュニケーションの語源、ラテン語コミュニカーレ、共有すること。
コミュニケーションはコミュニティとコミュニティを結びつけること。
文化の共有。
AD氏のCOP(Community Of Practice:実践のコミュニティ)間の活動図。
人はさまざまな実践のコミュニティに入っている。
学ぶとは表現することで達成される。
学びは自分の表現を見つけること、他者とともに生きること。
佐伯胖「アートの力×子供の力」
心の理論
チンパンジーと幼児
餌の入った箱から餌を取り出すときに棒で箱をたたく手続きをチンパンジーに教える。
チンパンジーはそのとおり学ぶ。
しかし、箱を透明にして、棒で箱を叩かなくても餌をとれることがわかるとチンパンジーはその手続きをしなくなる。
これに対して、人間の幼児は教えられたとおりにしかしない。
(この例は人間がチンパンジーよりも劣っていると言いたいのではなく、人間の教育可能性を示している。)
変な算数
みかんが6個、りんごが4個、かけるといくつになるでしょう?
というような変な算数の問題にも答えてしまう。
身体技法としての学び
根源的能動性と根源的受動性
エヴァリュエーションとアプリシェーション
アートというのは、アーティストだけがすることではない。
コミュニケーションは、表現する(デザインする)ことにより達成される。
すなわち、学びとは表現することにより達成される。
学校と博物館の関係
博物館の展示は表現物
博物館の職員は表現者→教員もそうあるべき。
表現物に媒介されて学校と博物館は結びつく。
【質疑応答】
LPP理論とは?
→Legitimate Peripheral Participation:正統的周辺参加のこと。
「分散」と「アンサンブル:集合体」、逆ではないか?
→ディビジョンオブレイバー、分業、ばらけたものを自分でまとめるから。
→自分の中にあるものを社会に分かつから。分かつのになぜ分散なのか。確かにそうだ。
→知識というのは個人の頭の中だけにあるのではなく、いろいろなところに分散して存在している。それが社会的分散。
→しかし、成り立っているのは個人。社会的に分散した知識をまとめ上げているのは個人。だからアンサンブル。
→社会から見た私は、分散した知識を使っている。責任を取るのは個人だ。
学びは個人に帰属しないのであればどう評価・記述したらよいか?
→成績付けと異なる指標が必要になるように思う。状況論的学習論だと成績がつけにくいと思う。
→試験は本来授業を行った教員に対する評価のはずだと思っているが、生徒の評価に使われている。
→学習環境をどのように生かせたか。そういう指標ができたらおもしろい。
→どれだけいろいろなリソースを活用できるかということを大学院の入試にするとおもしろい。
→個人に新しい活動がどれだけ生み出せたか。そこが評価になるのではないか。
個人の活動のデザイン、興味探索記憶応用対話とは?
→探索しなさいといっても探索しない。
→ほっておいても何もしないから何かしたくなるような場をデザインするということ。
参加の度合いの高いハイエンドなエデュケーションプログラムを考えたいが。
→大学院だと一緒に仕事する。
暴走族やコスプレイヤーのコミュニティが正統的周辺参加なら、美術館のエデュケーターにとっての正統的周辺参加は?。
トレーニング中の意欲を保つには?
→学校で参加までの興味は引き出せる。その次の、定着させるための繰り返し、九九を覚えさせるには?
→動機あるものは動機あるといっているだけ。LPPでは、動機のない人については語っていない。
→野球少年は反復練習とは思っていない。上手になりたい一心で、外部からは反復に見えることを一生懸命やっている。
学校の教員は動機を持たない相手に動機を持たせなければならない。
(学校という制度があるから生徒は学校に通ってくる。良い点をとるという以上の動機があるか?)
ミュージアム、学習環境が上手くできていれば動機が生まれる。
行くこと自体動機がもたらすということもあるが、別の動機でいくこともある。しかし、行った結果繰り返し行きたくなるような動機の導出もできる。
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