今回はテーマを次の3つに絞って旅行の計画を立てた。
結果、ウィーンに3泊、ウィーンからプラハまで列車で移動してプラハに3泊し、ウィーン乗り継ぎで帰国することになった。
- ウィーンで音楽を聴く。音楽を聴くならばオペラかオペレッタを楽しむ。
- 第2次大戦中にチェコ亡命政府がチェコに送り込んだ空挺部隊員の最後に戦った教会の地下室を訪問する。
- 本場のビールを味わう。
プラハへ移動
外地で元旦を迎えるのは生まれた初めてだ。プラハに行く列車は9時半発だというのに気持ちが高ぶって4時頃には目が覚めてしまう。
朝食前にホテルのすぐ近くのウィーン西駅に行って売店で飲み物と昼食のサンドイッチとサラダを買う。
水を買うのに「Acqua minerale」と言ったらきちんと通じて炭酸ガス入りかどうかを聞き返してきた。
昨夜は大晦日のカウントダウンで街じゅうが大騒ぎだったらしく、朝帰りの酔客もチラホラ見えた。
ウィーン西駅とお別れ
ユーロシティに乗車
プラハ行きの列車は西駅から地下鉄で3駅目のウィーンマイドリング駅(Wien Meidling)9時31分発、EC172。これはオーストリア南部、スロベニアとの国境近くのフィラッハ(Villach)始発でハンブルグに向かうユーロシティだ。列車番号のECはEuroCityを表す。時刻表によれば、この列車は始発駅を6時半頃に出て約360kmを4時間かけてウィーンまで来る。フィラッハからハンブルグまで全行程1470kmを約15時間20分で結ぶ。
座席指定券にはWAGEN258,Sitzplatze75,76と書いてある。たぶん258号車の75番と76番ということだろうと思うが、258号車?まさか258両も車両を連ねている訳はないと思うが・・・。
列車はほぼ定刻にマイドリング駅に着いた。ハンブルグ方向から、2等自由車、2等指定車、食堂車、1等車と連結されていた。ホームのどこにも何号車がどのあたりに停車するとは示していないため、乗客は適当に乗ることになる。乗降口の近くに書いてある車両番号を見つけたので、258号車に乗ることができた。
しかし、車内は大混乱だ。トランクを引きずりながら車内を前方に移動する人、後方に移動する人、「一等はどこか?」と我々に訊いてくる人。
通路の幅は日本の車両とあまり変わらないのでお互いに行き交わすのが大変だ。日本人の2〜3人ずつのグループも何組かいて、彼女たちが自分の座席を探す間、荷物を預かる。
ようやく座席に落ち着いてまずビールで乾杯!
国境通過
1時間少々でオーストリアからチェコに入った。国境を越えて最初の駅Břeclavでは入国のための審査は特別に何もなく、検札の時にパスポートを見せただけだった。
オーストリア国内では車内放送はドイツ語と英語だが、Břeclavを発車してからはチェコ語と英語になった。生まれて初めて聞くチェコ語は耳に優しい響きがあった。
定刻14時21分にプラハ本駅(Praha hlavní)に到着。頼んであったタクシーの運転手さんが迎えに来てくれていた。彼の案内で1番ホームを通った時に、ホームの横に父親と子供二人とトランクの銅像が目に止まった。ここには何の説明もなく、気になったがまた後日来ることにしてタクシーに向かう。
駅からホテルまでタクシーで15分ほどだった。プラハでのホテルはプラザアルタ、市内から少し離れるが、地下鉄の駅から5分ほど、目の前にトラムの停留所もある。
ウィーンのホテルよりも小規模だが同じくらい清潔で心地よく過ごせそうだ。
荷を解くのもそこそこにホテルを出る。
Nádraží Holešovice(ナドラツィ ホレショビチェ)駅から地下鉄C号線に乗って5駅めの I.P.Pavlovaで降りる。
1942年5月にナチのラインハルト=ハイドリッヒを狙撃したチェコスロバキアの空挺部隊員が最後に立てこもり、ナチスドイツ軍と戦った教会に向かう。
聖キリルと聖メソディウス教会
地下鉄の駅から15分ほど歩いて目的の聖キリルと聖メソディウス教会を見つけた。
弾痕も生々しく、70数年前の戦いの激しさが忍ばれる。多数の弾痕の間の横長四角は地下の納骨室の明かり取り窓になっている。
ナチは銃で攻めあぐねて、この窓から消防車のホースを差し込んで空挺隊員たちを水攻めにしようとしたが難航した。
慰霊碑には最後まで戦った7名の空挺部隊員の名前が記されている。
教会地下室が博物館になっており、その奥の納骨室にも入れるが今日はもう閉まっているので、プラハを発つまでにもう一度訪れることにする。
旧市街に入り、お待ちかねのプルゼニュビールを飲む。
ビールを飲んだ後、ヴァーツラフ広場を散歩して屋台を冷やかし、地下鉄に乗ってホテルに帰る。
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