2010-07-25

情報教材研究

 午前10時から15時前まで,県内外の有志の先生と情報教材開発の研究会を開いた。それぞれの得意分野から教材を提案し,実践に結び付けられるよう検討する。自分ひとりでは限界のあることも,他人の知恵を借りることで新たな境地が開けてゆく。
 こうして検討した教材を,自分の授業に適合できるように練り直し,実践し,また持ち寄って検討する。こうした取り組みが蓄積されて,授業に使う引き出しも増えてゆく。

2010-07-24

飾り毛布実演(羊蹄丸)

 毎月第4土曜日に船の科学館のとなりに展示されている実船「羊蹄丸」で行われている飾り毛布の実演を見に行った。今回は折り方を再現できるよう,ビデオとスチルカメラ両方で撮影した。










 『花二輪』の完成。現在では飾り毛布(花毛布)を実際に行っている船は希少で,折ることができる人も少なくなっているようだ。日本船に100年以上続く文化として,この先も継承していきたい。

2010-07-21

課題研究進捗状況



ヒレ推進船の船体はほぼ完成。安定性を得るためアウトリガーをとりつけた



基本的な花毛布は作れるようになった。

ゆっくりだが少しずつ進んでいる。
ヒレ推進船は,安定して浮かぶこと,まっすぐ走ること,そして速く走ることが目標。
花毛布については,基本的な折型はできるようになった。この課題は「文化の継承」という意味もあるので,記述する,図解するなどの方法で折る手順を記録することが目的。どこまで目的に迫れるか。

2010-07-19

ヒレ推進コンテスト公開講座

横浜国立大学工学部で高校生対象の「海洋空間のシステムデザインカップ ヒレ推進コンテスト」が8月28日に開催される。
今日はその事前の公開講座で、3つのミニ講座とコンテストのレギュレーション説明、実験水槽の見学をした。
本校からは、課題研究でヒレ推進船の模型製作中の3名、他校からを含めると38名の参加だった。


船舶海洋工学棟入り口に展示してあるプロペラ



航空機輸送,船舶輸送,トラック輸送の燃料消費



木片はどのように浮かぶか



船の安定性



大型実験水槽での造波実験



ミニ講座は次の3題。
(1)船の作る波と船体抵抗
池を泳ぐ鴨の後ろにも引き波と横波(ケルビン波)が発生する。という話は、そういう視点がないと気付かない。興味深かった。
(2)船体の安定性
日本の衣食住とエネルギーの輸入依存度、これらの輸送手段である船のエネルギーコストの対航空機比較、重量で実に99.7%が 船舶による輸送による。
という説明から、大量輸送に用いられる船舶の安定性に関する専門的な話。
(3)海洋を自律航行する海洋観測ロボット、イルカや魚の泳法を船舶に応用する技術、ヒレの動きをさせるための材料の開発など、普段は聴く機会のあまりなかった話。
(4)レギュレーションは今年からヒレだけでなく、他の水界生物の動き模して良いことになった。
(5)実験水槽見学
大学の実験水槽としては世界最大規模で、今日は幾つかの種類の波を作って見せていただいた。

2010-07-08

情報教材の研究会

 横浜で情報教育の教材研究会(1830~2100)。宿題にしていた教材を持ち寄って各自で説明し,お互いの批評をする。他校の実践を垣間見ることもできる。
 教材の開発,実践,振り返り,発表,という活動を繰り返している。他校の先生とこうした研究会を持つことで,自分では気付かなかった視点から教材を見直すこともできる。締め切りがあるので仕事も進む。

2010-07-02

教育実習終了

 6月21日から行っていた教育実習が無事終了した。今回の実習生は3名で,ホームルーム,部活動,教科(授業)それぞれの場面で積極的に生徒とかかわり,充実した実習をした。

 私は実習生に対して次のような支援を行った。
(1)教員の授業と実習生の授業をビデオ撮影し,DVDに記録する。
(2)教室後方から見た生徒座席表と教師卓から見た生徒座席表の準備。
(3)授業を参観したときの記録のとりかたの提案。
(4)授業ログを記録して,その日のうちに振り返る。
(5)授業内容について,生徒が誤解しそうな点を指摘する。
(6)授業の展開順序を入れ替える提案。
(7)その他技法的なことをいくつか。

 今までにも幾度か実習生を指導したことはあるが,ビデオ撮影したのは今回が初めてだ。自分の授業は自分では見られないから,後でビデオを見ることによって,鏡を見るように自分の授業を客観的に振り返ることができる。

 実習ではあっても,生徒に対して授業を行えば,生徒がよくわかるように,生徒の理解が進むようにする責任がある。そういう場に立つことによって,実習生は授業に責任を持とうとする。

 今回の実習生は,毎回の授業の振り返りから,次の授業への課題を自分で設定し,それを克服するように努力していた。私にとっても,二週間で実習生が成長する過程にかかわって,学ぶところが多かった。

2010-06-28

佐世保が空襲を受けた日

 昭和20年6月28日夕刻から29日未明にかけて、佐世保はアメリカ軍の空襲を受けた。父はそのころ海軍施設部勤務で佐世保在住、結婚したばかりだった。
 そのときのことを父は後年になって100年日記に次のように記している。
**************
約二ヶ月新所帯の後、6月29日焼夷弾攻撃(モロトフのパンカゴ及び油脂)で借家全焼。防空ゴーの行李・トランクのみを残し全てを失ふ。
S-15年後半から20年6月までのほとんどの手紙、写真、アルバム、衣類、私の第一種軍装、軍刀、父にもらったウォールサムの懐中時計など深い思い出の物を失ったのは残念なことである。
空襲当夜は蚊帳を吊り寝込みを襲われガケ下の横穴防空壕は満員で墓場に一時避難、その後山の頂上付近の一軒家の縁側で一夜を明かす。下界に広がる全市は火の海だった。
焼け跡の火の残って居る佐世保からリュック、モンペの○子を連れて帰国の途へ。空襲を避けながら汽車の乗り継ぎで山陰線に入り途中駅で停車の時ハンゴウで飯焚き中発車の合図で吹き出した飯も其のままに乗り込み、水害で鉄橋流出箇所は徒歩で渡って乗り継ぎ、浜田で一泊。松江で野津泊まりの上帰国する。
○子を疎開に連れ帰り佐世保へ出発する時、時計を失った私は時計を一個貰いたいといって、祖父の古い懐中時計夜光文字盤のを持って出かけた早朝、父は自転車で追いかけて来てチソットの腕時計を渡してくれた。此の時計は48/10/14日本堂へ修理に出したが直らなかった。
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 両親とも島根県出身だが、父は郷里へ帰ることをしばしば「帰国」と書いた。
 この空襲の時のことについて、数年前に母に聞いた話。
 佐世保の借家は坂の途中にあった。母は町内で一番若く、連絡係の役目だった。それで、役目を果たすために状況を報告しに行かなければならなかったが、父はそれを制して母の手をとり、山の上の方へ上の方へ逃げたそうだ。
 私が母に、逃げたのは玄関を出て右か左かと訊いたら、「左は坂の下の方。右に逃げた」と。
 母が役目通りに坂の下の方へ連絡しに行っていたら、両親とも助からなかっただろう。防空壕に空席があった場合にも。
 父が亡くなったときに、母からこの時計をもらい受け、時計修理専門の店に出したら修理できた。祖父と父の形見として今も毎朝ゼンマイを巻いている。