今年度第1回の納得研究会が青山学院大学で開催された。
研究会は14時からなので、昼食はメンバーに教えてもらっていたもうやんカレー246という店に決めていた。渋谷駅から青山学院に向かって宮益坂を登り切ったあたりにある。日曜日は定休で、月曜から土曜のお昼は1000円でランチバイキング、カレーとおかずが食べ放題で、コーヒーとルイボスティーも飲み放題。カレーは豚と牛の他に激辛ソースがある。バターライスと五穀ご飯、炒めたうどんそれぞれ好きなものにカレーをかけて、鶏肉やサラダ等いろいろをてんこ盛りにできるしおかわりも自由で、つい食べ過ぎてしまった。
午前中から雨混じりの強風で、電車のダイヤは乱れるし、傘は次々に壊れるし、大変な天候だった。雨は午後には止んだが、風が北寄りに変わって夜は冷え込んだ。しかし、発表後の議論は熱かった。
本日の発表は吉岡さん(立教大学特任准教授)と福田さん(横浜国立大学非常勤講師)。25人余りの出席で、とても盛況だった
【吉岡さんの発表】
ソクラテスメソッドの紹介と『対話による科学教育』の可能性について
応用哲学会のワークショップから。
先生も答えを知らないような授業、課題研究、総合的な学習の時間、STS(Science,Technology and Society)教育などに適用できるのではないか。
ソクラテスメソッドとは対話型教育の方法。レオナルドネルソンによって創始された。ソクラテスは自分の知識を教え込むのではなく、真理に至る道筋を求めることを重視し、質問、返答の吟味、再質問を繰り返した。
ソクラテスメソッドは、哲学者や哲学を教えるのではない。答えを求めるのではなく、学ぶ者を哲学者にする技術である。
カント(1724-1804)から始まっているらしい。
ソクラテス(469-399B.C.E.)、《問いの技術》と《「無知」の態度》、「無知」を明らかにする。事例から仮説を推論する。この方法を用いて、
トピックを選ぶ、
具体例を出しあう、
議論する、
吟味する、
(△△とは▼▼である)というような結論(定義付け)を導き出す。
ソクラテスメソッドにはドイツ方式とオランダ方式がある。
ドイツ方式はよりソクラテスが行った方法に近く、そもそもトピックの設定から参加者が案を出しあう(何について話し合うか等)。時間がかかる。
オランダ方式は、予め設定した問いやテーマについて話しあう。ある程度話し合ったら投票などの方法で決着をつける。など、ドイツ方式よりも短い時間で行える。
「友情」についてオランダ方式で対話を進める事例の紹介。
久しぶりに友人と会って楽しかった具体的なエピソードから、どこで会ったか、なぜ楽しかったのか、どんな話題だったのか・・・・・など、対話を進めて「友情」の概念を位置づけ、「友情とは・・・・・ことである」と定義付ける。
《感想》
授業の進行上、教師が生徒と対話しながら「ある価値を」誘導して定義付けることはあるが、私の場合は今のところ「教える」ことのほうが多い。しかし、教わったことは忘れやすく、自分が議論に参加してある結論(価値)を導いたことは、より理解が深まって転移可能な知識になる。
教師の役割は、「何でも知っている立場」から生徒に知識を授けるのではなく、生徒が授業に参加したくなるような場をデザインし、授業の進行を整えて結論をまとめ、生徒が知識を獲得することを援助することなのだと思う。
時間と学級規模の制約から、すべての単元についてこのような授業を行うことは無理かもしれない。また、受験や資格試験などの対応のために、従来から行われている「知識伝達型」の授業も全くは否定できない。しかし、学ぶことの楽しさや、知らなかったことを知る喜びを感じられるような、対話による授業を計画的に行うことができれば、従来型の授業に対しても生徒は「教えてもらう」受動的な参加ではなく、自分から学ぶ主体的な参加をするようになるのではないだろうか。
【福田さんの発表】
初等中等教育における対話による科学教育の可能性
~生物教育を例に~
1. 科学教育において対話はどのような意味を持つか?
科学教育についての言説:
教師は知っていて生徒に教える、事件や観察はそれを確かめさせるもの。
「中等理科教育法」で、空欄補充のプリントを用意する学生。
生物は生物に学ぶもの(「せいぶつ」は「いきものに」まなぶ)
「このカエル間違っている。」
2. 対話としてのレポート
都立小石川高校の生物の授業、小石川方式として都立高校の生物教育に広まっている。
自作テキスト「生物実習」担当班が事前に呼び実験を行う。その班がすべて準備する。
なんの為の実験かがわかっている。
レポートの提出と採点、再提出。
他人のを写す→不合格。初めて他人と問題が異なることに気づく。
同じ問題の人を探す。→議論が始まり相談が活発になる。
3. 教室を飛び出す
国立科学博物館の見学:教師自作のワークシートを持って
上野動物園の見学
自分で見てもらう。この動物のこの部分を見なさいという指示はする。
相手が何を見ているかを知ること。
どのように見ているかを教師が知ることも必要。
子供に正しい見方のチャンスはない。伝達メタファは?
科学者がやっていること、顕微鏡を作って見た人と、すでに顕微鏡が研究室にある人とは、見えが違う。
小石川方式では、どれくらいの生徒が乗ってくるのか。
→二種類の対話、自由な対話と意図された対話があるのではないか?
自由な対話は導入くらいでしかあり得ない。
一年間使って、ノートに自分なりの問いが蓄積される。
空欄補充問題との違いは、見ること。
生徒はどこをどう見るのかわからない。教師は意図した部分がある。
絵をかける人は見なくなってしまう。よく見なくてもそこそこかけてしまう。
授業でオープンエンド、芸術や文学解釈などでは対話が成立するのか?
そういう時には自由な対話ができるだろう。
患者のみたてはオープンではダメだと思うが。
自分が患者に対峙して得られる答えと、学生が対峙して得られる答えはちがう。
私なりの注射ということはあり得ないのではないか?
少しあるかな?
国語の場合と重なる。生徒との対話、生き物との対話。
《感想》
練習船で機関士を養成する教育を担当していた時のことを思い出した。
実習生ははじめのうち、機関室にある機器が視界に入ってはいても、それぞれの機械の名称も役割も全体の装置との関わりもわからない。
何をどう見れば良いのかわからない
出航し、機関室の当直に入って機関士(教官)の質問を受ける・・・教官と実習生の対話
○○ポンプの吐出圧力は?
電動機の電流値は?
燃料タンクの量は?
排気の温度は?
蒸気の圧力は?
それは何のための機械か?
・・・・・
・・・・・
教官とこうした対話を重ねるうちに,それまで機械であることはわかるけれどなんだかわからない,曖昧とした物体が,少しずつ姿を現して,本船の機関装置として役割を担うポンプであり,発電機であり,軸受けであり,熱交換器であり・・・と,ひとつひとつが意味を持った装置として見えてくる。
見えているということと、観る、視る、看る、診ることとは違う。
実習生は教官との対話を通して、機関室諸機器・装置の構成と役割、運転方法について視点を獲得し、自分で当直業務を行えるように育ってゆく。
「空欄補充」では技術も技能も獲得できず、それで覚えた「知識」は忘れてしまう。
懇親会は青山通りのGAYA aoyamaで。
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