本日の発表テーマ,ひとつ目は博物館が公募するボランティアに参加した新人の学び,ふたつ目は実践の場における学びと日常の道具が学校に持ち込まれたときの学びの変容。キーワードは「正統的周辺参加」,「文化的透明性」,「学習環境デザイン」,そして「面白くないことはつまらない」である。
【発表1】ASさん(社会人大学院生)
博物館ボランティアコミュニティにおける新人の学習プロセスに関する研究
-体験の権力性と体験の記憶の継承について-
キーワード:正統的周辺参加、文化的透明性
○博物館のボランティア団体を巡る現状
→館側からはボランティアが「圧力」団体のように見えたり、館職員とボランティアの軋轢があるなどの課題がある。
→ボランティアコミュニティができ上がる。
→館の考え方と軋轢を生ずることがある。
→博物館ボランティアの学びがどのように生起しているか。
○このような課題を抱えている博物館に参与観察した。
→館OBのボランティアと一般公募のボランティア(新人)の立ち位置の違い。
→明治期から2000年ころまで続いた国の事業。
→その事業の歴史を伝える展示。
→事業を実施する側として関わった職員OBボランティア。
→OBの体験・・・特権性。
→OBの知識や体験を継承するためとされる新人。
○新人の学習プロセス・・・新参者の学習。
→ここに正統的周辺参加概念、文化的透明性概念。
○一般公募ボランティアが可能にしたこと。
→OBの記憶を想起するきっかけとなった。
→OBや現職員との人間関係とは関わりなしにOBの情報にアクセスできる。
→新人だからできたことも多数。
→解説、ボランティアの学習に組み換えが起こる。
○浮かび上がってきた課題。
→新人は「OBの体験にはかなわない」という意識を持つ。
→新人は自らの学習自体をデザインするようになった。
→館の思惑とは異なった方向か。
→体験の記憶の継承を避けるように学習が形成。
→OBの体験にはかなわない。
→体験そのものを継承することはできない。
→そのため新たな側面から新人の学習が行われる。
○体験の記憶の継承には障害がある。
→文化的透明性のない環境が浮かび上がる。
→職員OBでも前職の地位によるシガラミがある。
→新人はOBの体験の継承とは異なる学びを始める。
→文化的透明性のない環境が浮かび上がる。
《質疑応答》
○ 正統的周辺参加、館の方針としてはOBのカウンターパートになることを期待しているのか?体験したことは体験した人しか語れない。
→そうではない。そういうふうに思ってはいるが基準を持っているわけではない。
○ それとしての設定があればよいが、そうではないのか。
→展示の解説をすることが目的。記憶の継承の形態としてはテキスト、映像などのアーカイブが可能だが、解説は解説として行いたい。人が人に伝えることの意味があるのでボランティアを募集している。
○ そもそも、移民の体験なのか、移民事業の体験なのか?
→ 館は「移民事業」の体験と思っている。OBは移民者ではない。移民と接触していたし、移民船にも乗って現地へも行ったし、そういう意味で移民の生活を知っているということであって、事業の体験者である。
○ 継承したいと思った体験なのか?私はそのような体験はしたくないし継承したくない。何のために継承する必要があるのか?
→館としては継承したいと思っている。これからは海外から日本への移民の可能性もあるから、この体験が生かされることもあると思う。
○ 私はその体験が生かされることはないと思うし、生かすべきでもないと思う。新人がOBを避けるのは、そのほうが正しいと思う。
→避けているわけではない。普段の生活では避けていない。
○ 新人は継承したいのではなくて、自分の存在意義、生きる意義をその活動に見出したいのではないか?応募する側はどういう意味で応募したのか?
→社会貢献が目的。要項では「語り部」を求めているわけではない。展示の解説をしてくださいということ。
○ 体験者の直接の語りは一次資料といえる。語り部は一次資料に近い。語り部の「語り」の継承は二次資料となる。
○ 本当はこうだったんですよと俯瞰するような、より本当らしさを狙うのか。そうではなくていろいろな見方があるよと来館者に触発する、拡散型のことを考えるならば、ボランティアが自分なりにおもしろさを探すという触発もある。ボランティアとしてやる人の役割をどのように位置づけるかを考える必要がある。
○ 臨場感をもって語ることが大切なのか、エピソードなのか、解説なのか?どこが大切とされているか、館もボランティアも明白でないところ、OBは権威者であることを捨てていないところが問題かと思う。
○ そもそも館のボランティア運営が間違っていると思う。体験者に語らせることは大切なのだが、それを新人に取って代わらせることはできない。そこが解消されないと軋轢はなくならないだろう。
例えば、OBの体験を語ることは館の展示の一部でしかない。新たなボランティアには、資料館の展示を解説させる。「体験の記憶の継承」についてはいろいろな形があり得る。「OBのありようをそのまま新人に」これはそもそも無理なこと。このような新人のトレーニングは、ふつうはしない。 ○ ウェンガーの「隙間のコミュニティ」にはなる。移住した人の体験と移住事業を行った人の体験は別である。
【発表2】ARさん(社会人大学院生)
日常的実践の越境による変質
ー学習環境デザインから見た学校化の具体ー
○ 学校における学び すべての児童に平等に教えるという理念
○ 学校外ではどうか?
○ 日常での問いに対する答えと学校での問いに対する答えは異なるのではないか?という問題意識。
○ ヨットの練習では、初心者は数時間の教習でとりあえずの操縦ができるようになり、そのために必要な用語は必要な場面で必要なときに随時教える。
○ ミシンという日常の道具が学校に持ち込まれて「教材」になると、「ミシンの各部名称を覚える」などの課題が設定され、ミシンの意義や価値とは異なる価値が持ち込まれる。そのため、ミシンを操作する上で使うか使わないか不明の用語もとりあえず教えるが、実習場面ではせっかく覚えた14の用語のうち4個しか使われなかった。
○ また、教員養成課程家庭科専攻の大学生の実習では、浴衣作製課題でミシンを使用しても、殆どの学生がミシン各部の名称を覚えていなかった。課題達成のために名称記憶は必要なかった。
○ 日常実践が学校に持ち込まれると(越境すると)、価値が変質する。
《質疑応答》
○ 小学校教育で、暗記がこのごろ軽んじられているという人がいる。議論になった。しかし、このミシンの例一つを持って語れるかどうか。ちょっとまずいのではないかと思う。
→それだけを取り上げてということは確かにそうなんだけれども、目的と手段が入れ替わってしまうことがある。学ぶ意欲を導き出せない。記憶することが目的になっている。ということを言いたい。
○ 発表として、どうかということ。突然ミシンの名前を覚えようということで始まったのか?先送りするというのはわかるけれど。現場の先生に言ったら、「うちではちゃんとやっている」といわれるだろう。
○ やっぱり、名称を覚えないと話が進まないことがある。
○ マニュアルを読めるようにするために学校があるのか?
○ 現代社会の実態にあっているのではないか?
○ 今はマニュアル的なものはなくなりつつあるよ。
ここでひとしきりApple製品の話題。
○ いまの子供たちは家庭にミシンがなかったりミシンを使っているところを見たことがなかったりではないのか?だから名前から入ったのではないか?それに対して大学生は、ミシンの使われ方を知っていたから、名前を知らなくても可能だったのではないか。
子供たちにミシンの使い方を知っているかとか使っているところを見たことがあるかなどの、既知情報を質問することが必要かな?と思った。
○ 越境ということがわかりません。
→ 日常実践から学校への越境。普段使っている道具が学校に持ち込まれて教材になると、別の意味を与えられるということ。
○ 初心者を実践の場にいきなり放り込んでも、学ばないこともある。
→ 体験と実践は違うと思っている。
○ 生徒が意欲を持って学習するようにしたい。その前にいきなり名前を覚えさせられてテストされてということに問題意識を持っているのではないか。その前に意欲をそがれるような授業デザインではないかということ。
○ たしかに、約束事は覚えてもらわなければならない。マニュアルを読んでもらうことが商品開発の目的ではなく、商品を楽しんでもらうことが商品開発の目的であるが。
○ 学校の授業もほんとうは、ミシンを買わせるマニュアルパンフレットのようなもので授業やればおもしろかったかもしれない。さぁ、○○を縫ってみよう。という具合に。だんだんやりたいことを増やすように。ミシンを売る作戦としての説明書のような授業デザインが必要だったのではないか。
○ 料理教室などでは実際にそのような形で行われている。A4用紙1枚程度の簡単なマニュアルで説明し、帰りにはこの材料を買って帰りたくなるような。
○ 小学校では、その道のプロを育てるわけではないから、ミシンで何ができるかが大切。ミシンの価値を離れて空欄補充になっている。
○ それはその先生が空欄補充にしたのか?
→ 教科書が空欄補充になっている。
○ そのあと小学校の先生が評価しやすいようになっている。だから空欄補充になっている。評価先にありきで授業が組み立てられている。ミシンでそこそこ縫えるようにすることが到達目標であるはずなのに、試験・評価が目的になっている。
○ 改正教授術が最初だということだけれど、「改正」はつかないのではないか?亀の絵か何かを見せて示しているはずだ。
《私の感想》 ミシンが学校に持ち込まれると、ミシンの面白さや有用性を楽しんだりそこからミシンの価値に気づいたりするよりも、まず「お勉強」が優先されて、生徒は「空欄補充」をさせられる。これに対してヨットは、数時間の練習でとりあえず操れるようになって帰港するので、次にはもっと上手になりたいと思う。そこから学習の糸口も出てくる。
教師が「教える」よりも生徒が「学ぶ」ように、学校を学校的でなくするような授業デザインが求められているのではないか。この授業1コマをもって学校で行われているすべての授業を語ろうということではなく、日常の実践が学校に持ち込まれると「価値」が変容し、その実践が持つ楽しさや有用性を離れて学校的な価値観が優先されるということ。
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