2009-08-24

第二回全国高等学校情報教育研究大会

 茨城県の筑波学院大学で開催された「第二回全国高等学校情報教育研究大会」に出席した。ナント遠いと思っていたが,秋葉原からつくばエキスプレスの快速で45分,充分に通勤圏内だった。
 午前中は文部科学省初等中等教育局の永井克昇視学官の基調講演があり,本年3月に告示された学習指導要領「情報偏」のホットな話題を聴くことが出来た。


つくば学院大学学食のカツカレー



「情報デザインの手法を取り入れた情報の授業」



「平成25年度に向けて高校情報教育の検討~コンピュータ教育から情報デザインへ~」




ポスターセッション



 午後は6分科会場で合計24本の発表,2会場で合計10本のポスター発表があった。
 私は第三分科会で「情報デザインの要素を取り入れた教材開発と実践」として,スパゲティカンチレバーの実践紹介を行った。同じ分科会では,いっしょに研究を進めている先生方から「情報デザインの手法を取り入れた情報の授業」,「平成25年度に向けて高校情報教育の検討~コンピュータ教育から情報デザインへ~」の発表があり,最後に「第2回研究大会のサイン計画について」という発表で締めくくった。第三分科会は,結局情報デザインに関する4本の発表でまとめられていた。
 とくに,最後の発表は(一緒に研究しているメンバーではなく)本体会のプログラム,パンフレット,大会ロゴ,会場のいろいろな案内表示について,大会を運営する先生方がクライアントになって会場校の学生に依頼し,半年かかってそれを作り上げてゆく過程の実践発表だった。大勢の人が集まる研究会では,参加した人が迷わずに目的の分科会に行けたり,休憩したり,昼食をとったり等々ができなくてはならない。その全体のサイン計画を学生に発注して実践するのは,これこそ情報デザイン教育だと納得した。
 大会のあとはつくば駅至近のドイツレストランで立食パーティ。生ビールとソーセージ,芋,ザウアークラウトでご機嫌だった。帰りはつくばエキスプレス,最高速度130kmを堪能し,2時間半で帰宅できた。

ビール!うまかった

2009-08-14

情報部会研究会

 教科研究会情報部会の研究会に出席するため横浜清陵総合高校へ。午前中はSqueakによるプログラミングの基礎的な教材例,午後はマイクロソフトのPublisherによるDTP基礎の教材例紹介。
(1) Squeakによるプログラムは,慶應の大岩先生が紹介しているサイトを見て独学していたが,やはり人に教えてもらうとよくわかる。C言語やBASICなどの場合には,コマンドを覚えたり,プログラムのでバッギングをしたりすることに時間を奪われて,プログラムで大切な論理構造が見えにくい授業となることが多い。また,その論理構造を図式化するためのフローチャートについても,「食わず嫌い」を生みやすい。まずSqueakでプログラムに対する敷居を感じないようにした上で,本格的なプログラムに取り掛かると効果的と思った。

(2) マイクロソフトPublisherによる校内新聞と名刺作成:
 世の中では,ワープロソフトではワードが事実上の標準のように扱われており,学校の授業でもワードによる文書作成,ポスター作成などの教材を扱うことが多い。ワードアートやクリップアートを多用した作品は,数年前なら目を惹いたが,今ではワードの諸機能を使ったことが見え見えで,とくに素晴らしいとも思わない「作品」が多いようだ。
 ワードの諸機能(ワードアートやクリップアート)が悪いわけではない。ポスターや三つ折りチラシのような,「人に見てもらって,情報を伝える」ために必要な理論的裏づけなしに,ソフトウェアの機能に依存した作品を作って満足してしまい,「人に見てもらえるか,伝えたい情報が伝わるのか」についての検討をしないことが問題なのだ。
 Publisherもソフトウェアである以上,そのような愚に陥る可能性がないわけではない。しかし,本日の研修では,ポスターやチラシを制作するうえで,「人に見てもらう,伝えたい情報を人に受け取ってもらう」という本来の目的を達成するための理屈,そしてそれを実現するためにソフトウェアの機能を利用するという視点を教えられた。
 見てもらうために,画像や図表をどのように配置するか,「見出し」の位置と大きさと書体,なぜ段組が必要なのか,字の大きさと行間や字間の関係,どうすれば見てもらえるか・・・ポスターや新聞は感性ではなく理論で作られている。必要な情報を全て書き込んでも,ベタなポスターでは誰も見てくれない。こういうところにも「合成の誤謬(ごびゅう)」という経済用語が当てはまりそうだ。
 ソフトウェアも使いようだから,「情報教育は何でもかんでもワードとエクセルとパワーポイントで完結」という状況から脱却し,伝えたい情報は何か,どのように表現するのか,どのように伝えるのかという,情報教育本来の姿を目指したい。

2009-08-09

水中ビークル

横須賀市夏島の海洋研究開発機構に水中ビークル(潜水ロボットと水中グライダー)の見学、水中グライダー工作体験に生徒を引率。
潜水ロボットは制御技術、水密技術、工作など総合的な技術と技能が必要。
水中グライダーは浮力と錘と揚力のバランスで水中を走る。主な材料はペットボトルと塩ビパイプ、タミヤのプラバン。
このバランスを計算で求めるのはたいへんなので、いまのところは試行錯誤で工作しているらしい。
教材としてもおもしろい。

2009-08-07

学習環境デザイン研修講座

 横浜国立大学で「学習環境デザイン研修講座」を受講した。平成18年から毎年受講していて,完全にリピーターになった。講師は横浜国立大学の有元典文先生。

本日の目的は2つ。
   なぜ
   いかに
     授業をデザインするのかを考える。

(1) なぜ授業・活動をデザインするのか。
 「何時に起きるか,何時に昼食を食べるか」などの人の活動を決めているのは,生理学上の要求からか?そうではなく,どちらかと言うと社会的、文化的なことから決まっている。人間の行動は生理学上のことだけでは決まらない。
 日本人が3度3度食事をするよういなるのはいつからか?狩猟民族は獲ったときが食べるときであったはず。農耕民族はちがう。農耕が主だった時代は一日二食だったらしい。
 空腹になると血糖値が下がるが、昼食をたべるのは空腹だからか?そうではなく,昼を食べると言う文化があるからではないか。朝起きる時間も、放っておけば何時に起きるかわからない。仕事がある、電車の時間があるから起きる時間が決まってくる。
 これらの行動を規定しているのは文化である。人間は体だけで行動するのではなく、文化によって行動が決まる。

 パーソン・ソロとパーソン・プラス(パーキンス,2000)
 パーソン・ソロ:教室の中で自分の周囲に資源を持たない生徒。紙と鉛筆などだけで計算する人。
 パーソン・プラス:、周囲に資源を持つ生徒。計算機、人に訊くなど、周囲の資源で計算する人。

 学校はパーソン・プラスをパーソン・ソロにしようとする運動をし続けている。
 私たちを買い物に行くとき、食材をメモしていく。私たちのパーソンにプラスしてメモ帳、携帯などに記憶させている。買い物へ行く時に頭の中だけに記憶させる人はあまりいない。私たちは道具を使って記憶を補助する。
 ところが学校は道具の利用に制限をかける。一人でできにことを仲間と実現するとしたらそれはその生徒一人の能力とは認めない。試験で人の助けを借りたり、メモを参照して答案を書いたりしたらカンニングとみなされる。→ひとりでできるようにするのが今行われている学校の教育。
 しかし社会では、メモを使う、人に聞く、辞書を使う、・・・回りの資源を使って生活を実現させている。
 日常生活ではパーソン・プラス。しかし学校ではパーソン・ソロを求める。
 『分散認知ー心理学的考察と教育実践上の意義ー』ガブリエル・ソロモン編、松田文子監訳、共同出版。

 人間の能力は皮膚の内側だけで成り立っているのか?そうではない。
 今だから授業でパワーポイント等を使っているが。私ひとりではなく、私プラス何かでこうした講義を実現している。

 パーキンス:「生徒が学校を卒業したあと生活できるように準備をすることが学校の使命に含まれているのならばパーソン・ソロに近いものへの固執は"実社会"からずれている。 ほとんどの生徒は認知を分散する術についてたくさん学ばなくてはならず、学校はそれを手伝うべき。」p.127

 わからないとき誰かに聞くことは誰でもする。しかし試験ではそれができない。試験というのは個人の能力を測るための行為。
 「能動的思考者は周囲を豊かな周辺に作り上げ、パーソン・ソロでは手に入れられないような結果を得るために周辺とうまく相互に作用しあう。」
 個人の外に資源を求めることは、我々が普段していること。
 本日の目的二つは何?と聞くと、皆さんメモを見るでしょう?

 人間の記憶能力は 7±2 。7桁の電話番号がせいぜい。短期記憶では30秒が限界。リハーサルをしないと消えてしまう。落語の与太郎、用事を唱えながら使いに行く。途中でいろいろなことに出くわして用事を忘れてしまう。江戸時代から人間の記憶の限界はわかっていた。

 電球が輝くメカニズムとは?豆電球が光るのはなぜですか?
 フィラメントが発熱するときの発光。電球の中が閉じられていて、真空になっている。 という答えが返ってくるが,これらは物理的なメカニズムだけ。しかし,電球が光るためには,物理的なメカニズムと社会文化的なメカニズムの両方が必要。
 ・物理的なメカニズム:フィラメントの抵抗
 ・社会文化的なメカニズム:ソケット、電気、発電所、電力ビジネスモデル(インフラストラクチャ、公共料金自動引き落としシステム)などによって電球は光る。電球単体では成り立っていない。

 人間はどうか?
work1  間隔がちょうど10センチになるような2点を、目分量でノートに打ってください。
私の目分量の結果:92.5ミリ

メートル法 1791年 フランス
 北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1 1792~1798年にかけて測定。
 1875年メートル条約
 1886年(明治19年)日本加入
 日本のメートル原器はNO.22で、国際メートル原器との差は0.78マイクロメートル
 現在は原子の振動数がメートルの標準となっている。
 1791年までは人間は10センチを図ることができなかった。
 25メートルプールも100メートルそうも、身長177センチも、10ヘクタールの農地も「100m先を左折して」も地上333メートルもわからなかった。
 人間は生まれつきに長さを直感する能力と言うものはない。しかし道具によってそれを感ずることができるようになっている。生得的な能力ではない。

 パーソン・ソロというのはそもそもありえない。
 生まれつきの人間には(その可能性はあっても)
  長さを図る能力
  時間を図る能力
  音階を聞きwける能力もない。
  (その直感も意図もない。)

 目を閉じて30秒したら手を上げてというと、だいたい30秒前後で手が上がるがこれは秒という時間感覚を後天的に得ているから。

 大航海時代に船の位置を測る上で分の単位では足りないから、秒ができた。second のminute だからsecondというようになった。・・・納得的理解!
 音階:振動に対して名前をつけて音階ができた。

人間はパーソン・プラスである。それが私の心理学の拠って立つところである。人間とは一匹のイキモノではない。一人の人間も歴史と文化の集合体である。

 意思の疎通の概念、距離の概念が変わっている。ここから新宿までの距離という概念は、5世代前とはちがう。新宿まで歩くと、9時間かかる。新宿に飲みに行くなどありえなかった。
 横浜新宿間の距離:曽祖父、高祖父の時代にはその距離感が違う。そのようなことを考えてみても、パーソン・ソロはありえない。

 言語もパーソン・ソロではない。外来語も入ってくる。今この瞬間に行っていることは過去の先人との共同作業である。ここが動物と違うところ。一人で成り立たないのが人間である。
 たった一人であれば、毛のないサルである。生理的早産。他の動物に比べて見れば、圧倒的に早産である。産み落とされてそのまま放置されたら人間は生きてはいけない。立ち上がれない歩けない。

 しかし、教育は個人の皮膚の内側に人の行動の原理を移植しようとする。グループワークや共同作業をしようとする授業はあるが、基本的には個人の中に何かを注入しようとする。
 それはまるで、電球が光るのは電球の内側の作用であるとただ直感しているに等しい。

社会文化的サイボーグ
 人工的な器官と一体化することで生まれつきの能力を超えた人間。
 私たちは皮膚の外の世界の人工物と一体化し、知識・技能をインストールされて出来上がったサイボーグである。

 九九の計算を暗記して、今、7・8=56(シチハゴジュウロク)が即座に答えられたからといって、それは計算したのではなく頭の中の九九の表を参照しただけ。計算したのではない。←チャンク化した記憶の参照


人は社会文化と不可分である。
 ただし、社会文化から離れて自律(この字で正しい)はできない
 暗闇でも移動する能力を持つが、たとえばそれは懐中電灯と一体化しているときだけ。 自転車:人間が一番少ないエネルギー源で最も多くの距離を移動できる道具。茶碗一杯の飯で30キロメートルを移動できる。

 パーソン・ソロ:学校ではパーソン・ソロ
 九九表を頭の中に入れる・・・パーソン・プラス。漢字:パーソンプラス(漢字は自分で作ったものではなく、あるものを参照している)。しかし、それを覚える過程ではパーソン・ソロ的に使わせているのではないか。
 英文和訳をさせるとき、頭の中に英単語が入っていることを期待されている。英単語を覚えたときはパーソン・プラスだが、使うときはパーソン・ソロだと思う。

 暗闇でものが見える:人間の視覚は色に敏感で、形に劣る。犬は色の能力を抑えて形をよく見えるようにしている。
 私たちは世界を道具越しに経験している。
 文化心理学上のまとめ。カレンダー、メジャー、・・・暦が発明されるまでは、一週間前のことがわからない。
 私たちは世界を道具越しに経験している。みなでよってたかってデザインしてきた現実を生きている。世界を素のままでなく、道具を介して理解している。

 認知は単にサイコロジカル(個人内)でなく、ソーシャル(個人間、個人と道具間)
 朝倉心理学講座11文化心理学 田島信元編 9章『認知科学と文化心理学』有元典文,pp165-185、2008

 なぜ授業・活動をデザインするのか→認知能力は固体の内にあるというより集合的だから。
 いかに授業をデザインするのか。

 すべての知識・技能は応用可能か?
 学校で教わったことで今生活で使っていることは?私たちを育てたのは学校かそれとも社会か?

アダルトマスプログラム
大人が計算をどのようにしているかの調査。学校の算数はまったくできなくても、買い物ができる。1980年代の教育関係者のショック。学校算数の能力と買い物の計算能力には相関がないことがわかった。

あまり問われないことを問うのは大学の勤め。普段考えないことを考えていただく。

ストリートマス:ブラジルのココナツ売り。算数はできないが、絶対損をしないような売り方をする。

こうして実例を見てみると、学校で教えている算数とは何なのだろう?
社会学者は「学校というのはゲームだ」といっている。

30分休憩。
1430再開

(2) いかに授業・活動をデザインするのか。
work02
内発的動機とともに取り組んでいることについて伺います。
1 その活動    (例 野菜作り)
2 目下の課題   (収量と味の向上)
3 情報源     (雑誌、参考書、仲間)
4 評価はどこから (現実、隣の菜園との差)
5 動機      (ともかくたのしい!)

例1 ラグビーの写真撮影
カメラの性能と自分の腕前
雑誌、本、インターネット、隣で撮影しているプロの人の手ほどき
写真を見た人からの世辞。俺って上手い!という自己満足。
子供の写真を写すことから高じて。しかし、子供がなかなか試合で使ってもらえない。人から写真をほめられたい。よい写真をプリントして人に喜んでもらい、その結果としてほめられたい。


例2 天然鰻釣り
道具とかいろいろなこだわりがある。ヒゴという道具を使う。
目下の課題:釣れない。10回行って2回くらいしか釣れなかった。
やり方の情報:叔父が釣っているのを見て。
研究不足。
天候、状況、などを記録する。
動機付け:楽しいから。


例2 ケーキ作り
3度の食事よりもケーキ。10歳くらいからやっている。36年くらい。プリンから始まった。
目下の課題:自分の舌に合うものが作れるようにはなったがさらにおいしいものを作りたい。プロにはかなわない。
情報:食べ歩き、舌で覚える、プロの味を見る、本を読むなど。
「この味」の再現方法に気づいたことは?イメージどおりには作れるようになった。
情報源:主として舌。

例3 リズム活動
子供たちが基礎リズムを体得すること。
情報源:研究会などはあまりないようだ。この4月から教職。それまではフルートの演奏活動。小学校の専科で音楽教育。
課題:日本の音楽教育の現実を見てしまった。音楽は嫌いなのにカラオケには行くと言うギャップ。音符が読めない。積み重ねができていない。楽譜にとらわれないでできる音楽として、リズムがある。そこがわかってきた。

音楽嫌いだがカラオケは好きというのは面白い。

例4 手作りの簡易ドーム型テントを趣味として作り,子供たちに見せたい。
プラネタリウムができる。いろいろな素材を探し、グラスファイバーのポールで丸い形を作っていく。
情報源:本物のテントを見て、こうやるのだと気づく。100円ショップなどに行ってよさそうな道具をさがす。

例5 野菜作り
収量とか味は向上するのか?→頑張っただけ向上がある。6年くらい。はじめは思うようには行かなかった。肥料など。
情報源:雑誌、仲間との情報交換。

これらの活動を支える周辺を確認していただいた。活動の周りにはいろいろなことがる。課題、進めていくための情報、おおむね自分の満足感、人の評価、内発的動機:これらの活動では動機はあるに決まっているが。それでは学校では?

work03
一番最近教えた内容について伺います。児童生徒にとってはどうでしょう。
1その活動    例、小2音楽「しろくまのジェンカ」リズム遊び
2目下の課題   歌いながら踊る
3情報源     先生、教科書、CD
4評価はどこから 先生、友達との違い
5動機      なぜやるの?

自分の活動との差を考える。
教室での内発性の困難
 学習事項が外発
 問いが外発
 動機が外発
 意義が不明確
 アイデンティティが不明確(自分は誰で何のために何を追及するのか)」

動機付け:motivation 
 今学ぶことの意義がわかる子供は幸せ。分数の通分約分の社会的な意義がわかればそれは素晴らしいが、大概はわからずにやっている。
 逆説的であるが、学校は学習するのに一番困難な場である。
 少年サッカーはサッカーをしたくて来る。学校は行くことになっているから行く。動機が一致せずに学校に来ている。そういう点では,専門高校の生徒の多くは動機があって来ている。看護学校の生徒。彼らは動機、アイデンティティがあって来ている。

教室での実践の特徴
目的が希薄(個人の学習以外の)
メンバーは任意
練習はあれど本番がない
きそはあれどおうようはない
損も得もない(学業上の達成度以外の)
あえてつけないと動機がない(だから「動機付け」!)
児童生徒でしかない。
これが個人の趣味に邁進している人間との違い

教師とは:要するに学習に不向きな場所で学習させるための工夫をする仕事、学習環境のデザイナーである。

動機の喚起
×・・・教材・教具の工夫(小さな文脈の工夫はオブラートであって,(学ぶ主体の生徒に動機がないという)構造は変わらない。

○  大きな文脈の工夫(よりおいしいケーキを作りたいという文脈、そのための小さな文脈。)

どうしたら人は内発的に理解を求めるのか?
性格?指導者?それとも
どうしたら内発的理解を求めるようになるのか。

二人ペアになって相談し、自動車のエンジンからタイヤまでのtからの伝わり方を簡単に図示してください。
http://y-sunka.org・3f_ind/car/index.html

Miyake(1986)ミシン構造
今回二人にはミシンの仕組み、原理について話しあってもらいます。どのようにしてミシンは布を縫えているかについて、私に図で説明できるように話し合ってください。

糸1と糸2がどうやって絡み合うのだろう。
ボビン自体が回るという巧妙な仕掛け。

Miyakeの動機付け再考
ペアで一時間くらい相談
山田(2009)の追試では30分程度
全ペアともレベル5まで理解。
山田(2009)ではほぼレベル2度止まり。
→「内発的動機」

理解と文脈
 今回二人にはミシンの仕組み・原理について話し合ってもらいます。どのようにしてミシンは布を縫えているかについて小学校5年生に対して授業が出来るように話し合ってください。[その後3分間の模擬授業]

理解:自分が理解することと誰かに理解してもらうためのこと
理解とは頭の中の抽象的な出来事ではない。具体的な「理解を必要とする文脈」が重要

鰻の釣り方を教えても、「鰻を釣る」動機がなければ教えられない。

小学校の音楽の授業:琴の写真もければ音もないのに、琴の部品や道具の名前を覚えさせる。これは、生徒にとっては覚える動機も何もない。

「子供に教える」という文脈で理解しようとする。それに対して子供は、使う当てのないことを覚えさせられている。

優れた授業から
 カマキリになってみる
 模擬株式
 酸性雨ネット(アメリカの小学校):それが行政を動かした。
 伊那小
 校長に嘆願書
 一本のバナナから
 一番大きな容積
 時の為政者になってみる
 絵コンテ作り

優れた授業から
アイデンティティ
 カマキリになってみる
 時の為政者になってみる
 絵コンテ作り

活動がリアル
 模擬株式
 いちばん大きな容積(一枚の紙から作る)

社会的意義
 一本のバナナから(フィリピンからバナナがどのように日本に届けられているのか、自腹切手フィリピンまで行った先生の授業作り)
酸性雨ネット

実践共同体
 校長に嘆願書;アメリカの作文教育、ピンクフロイドの音楽をかけて学校でダンスしたいという嘆願。
 伊那小:

優れた授業を見ると

理解を求める文脈とは:
 活動自体がリアル
 アイデンティティがある
 社会的意義が見える
 実践のコミュニティに参加する。

今飲みにくい薬を飲ませる小手先の動機付けではなく、文脈。

活動自体がリアル
目的がある
社会的に評価される
出来不出来、勝ち負けがある
自己評価、周りの評判
学習事項オープン
方法答えはオープン

    昔、茶筒に少量のガソリンを入れてシェイクし、電気をつなぐとスパークが飛んで、茶筒の蓋が飛ぶという授業を受けたことがあった。今なら出来ないかもしれない。

アイデンティティがある
誰として取り組むのか明確
見本となる存在がいる
社会にその実践がある

    Jリーグ:将来これで食べられるという見本、それにより小学生にサッカーが盛んになる。

社会的意義が見える
なぜ取り組むのかわかる
学力のためではない
自分のためではない
意義が公共的
社会に影響を及ぼす可能性
自分たちが知恵の原因になれる

一年に一度でもこのような授業が出来れば

実践のコミュニティに参加
学ぶことは参加すること
参加することはメンバーになること
熟練を目指す
コミュニティの担い手である
学校を超えた地域・社会のもの

いかに授業・活動をデザインするのか → 個人のデザインではなく、場のデザイン。
個人を変えるのが目的というのは逆だと思っている。


まとめ
そもそも学校は学びに向いていない
好奇心=動機付けを高める文脈の工夫
 ←→単なる教材の工夫ではない
リアルな活動・役割付与・意義・実践のコミュニティに参加
動機のある子供は幸福

鰻とりを追求しているときは幸せ


形ある人工物は継承していくことが出来る。だがたとえば自転車という人口物を前の世代から引き継いだとして、それをどう使うという知識は物自体に埋め込まれてはいない。自分たちの世代のたくわえを次世代に伝えるには、世界の見え方を伝承するための特別の亜実践が必要になる。そのことを私たちは「教育」とよんでいる。
「デザインドリアリティ」有元・岡部、北樹出版、2008

拡張された種(イキモノ)
自分たちの世代の世界の見えを次世代に伝え、世界を「再生産」するために、私たちは教えと学びを必要とする。

動物とは異なる後天的な伝承のプロセスを種として必要とする。
種の存続の基本条件として学習のプロセスを埋め込んだ存在が人間。

2009-08-06

玉掛け技能講習引率

 今年も玉掛け技能講習の引率で、相鉄線かしわ台駅からバス10分の「IHI技術教習所」に行った。
 玉掛けは、重量物にワイヤを巻き掛けてクレーンのフックに取り付け、クレーンオペレータに手やホイッスルの合図で重量物を吊り上げたり移動したりする、とても危険な作業だ。
 クレーンのオペレーターはクレーンの免許取得者だが、それを指揮するのは「玉掛け技能講習修了者」というわけで、どっちが偉いのか?とふと思ってみたりする。